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タモツの日記
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#292 敬意を慰霊の気持ちに

植物は分からない。動かないから、生死の境界も曖昧だ。感情も分からない。そもそも、それがあるのかすら分からない。立木ならまだ分かる。おおよそは生きているのだろう。感情もある気がする。だが、伐倒後の丸太は死んでいるのかと問われれば、その答えはYesでありながらNoでもあると思う。つまるところ、僕ら動物と同じ杓子では測りきれないということだ。

それでも、諦めずに考えるのであれば、植物に宿る魂を基準にすればいいのかもしれない。例えば樹木。倒木しても魂は抜けてないと思う。何なら、製材されて家具に生まれ変わっても、その魂は宿ったままだろう。そこへいくと、立木でも腐りかけていれば、魂も抜け気味と思ってしまう。伐倒された丸太が腐っていたら、それはもう死に体だ。魂も抜けていると思う。

つまるところ、そこに魂を置くと説明がつくことは多い。とはいえ、その実態はないと思う。自我であり、思考の出処で、器の肉体に対しての私の本体。そのようなものと思っているが、科学的には、有ることも無いことも、証明できてはいない。おそらく、他人の身体的な出力に「人」を感じ、同じく自身の内からの出力に感じた「人」が自我であり、その出処が魂と思っているものなのだろう。

けれども、それは取るに足らないことなのかもしれない。魂を置くことで、様々な問いを解くことができるからだ。それは数学の「虚数」のようなものだと思う。物理学の公式は、関わりのある要素の関係性を表している。そこに虚数はないが、単純な公式まで導く式変形の過程では使われている。ただ、量子力学の公式には虚数が含まれるものもあったが、最近になって虚数を含まないものが示された。

そのような虚数は魂と似ている。人の思考や行動を考えるとき、その過程の中に魂を置くと説明がつきやすい。僕らは納得できてしまう。おそらく、魂を必要としない真理もあるのだろう。正直に言うと、僕の興味はそっちに向いている。けれども、それは人の思考や行動を納得する上では必要ないのかもしれない。

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