





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。最近になってはじめた会社のnoteアカウントだが、やはり辞めようと思う。理由は単純。自分で読んでいても、おもしろくないからだ。1ヶ月は続けるつもりであったが、半月でリタイアしようと思う。こっちのアカウントへ記事を引っ越しさせようとも考えていたが、それも辞めておくことにした。それくらいに詰まらないからだ。
そもそも、書いていてもおもしろくない。制約があり過ぎた。会社アカウントだから、変なことは書けない。失敗談もそう。それらを僕はおもしろいと思っているから、つまるところ、書きたいことが書けなさすぎ。当然のように、書いてもおもしろくないし、読んでもおもしろくないわけだ。きっと、読者も同じ思いだろう。
オウンドメディアで、個人的な語り口調のエッセイが少ないことも頷けた。企業のアカウントでは、自ずとキャラを作ってしまう。店員さんのような振る舞いだ。「お客さんとの会話は楽しかった」と書いてしまう。まさか「おならをしたかった。お客さんが来ないことを祈りながら、椅子からすこしおしりを浮かした。音を出さないためだ。しかし出てしまった。プッ。その瞬間、僕の背筋は伸びた。だが大丈夫。周りにはお客さんどころかスタッフもいない。けれども、次の瞬間、僕の顔は蒼白となった。臭ったのである。しかも、運悪く、遠くからお客さんが近づいてきた。僕はおもむろに席を立ち、陳列された商品を整え出した。空気を混ぜるためだ。しかし、臭いは強い。昨日の夕食にレバニラを選んだ自分が憎い。落ちてもいない商品を拾うしぐさもした。空気の混ざり具合は最強に近かった。おかげで、臭いは気にならなくなった。けれども、準備はしておいた。『なんか臭いですね』。最終兵器として、この言葉の発射準備をしておく。そして、案の定、お客さんから話しかけてきた。およそ10分の長話。僕の心配は憂鬱で終わった。お客さんとの会話は楽しかった。」とは書けないのである。
やはり、書きたいことを書くために、僕のnoteは存在している。今、書きたいことといえば、公募に出した写真のことだろう。入賞すれば、いろいろと暮らしも変わると思う。ヨーロッパへ行く必要も生まれるだろう。確定申告を意識する生活も待っているかもしれない。でも分かっている。そんなに世の中は甘くない。けれども、公募に出しただけで夢を見ることはできる。肌感覚では、年末ジャンボを買うよりも夢は大きい。その結果は、もうすぐやってくる。結果を知りたいような、知りたくないような、やっぱり知りたくない。
きっと、結果を知れば反省会がはじまるだろう。来年も公募に出すつもりだからだ。すでに、反省ポイントも、ひとつある。僕はそれにすこしの後悔を残していた。数枚の写真を、フィルムで撮ったとは言わなかったからだ。もしかしたら、加点ポイントになったかもしれない。けれども、言わなかったのは、僕の戦略というか、プライドというか、矜持みたいなところだ。それを野暮ったいと思ってしまうのである。
インファッションとしてのデジタル写真を否定して、オールドファッションであるフィルム写真の価値を、相対的に上げる余白はあるだろう。けれども、それは野暮。何も言わずに世に示すことが粋だと思ってしまう。この構図は、僕の中に多い。車もそうだろう。MTは楽しいが、それを説明するのにATを否定したくはない。前職の農家時代の戦略もそう。原木栽培であったが、そのことは極力言わずに、菌床栽培を否定はしたくなかった。そして今、文章作成にAIを使っていないことも同じである。
AIが書いた文章は、なんとなく分かる。noteでいえば、罫線で区切られた記事は、それだけで疑ってしまう。かなりの量のAIが作った文章が存在しているからだ。そうなれば、今後は、AIではなく人が作った文章が、それだけで価値が生まれるだろう。そのとき、「AIを使っていません」の文言は、戦略的に大きな武器になるかもしれない。けれども、僕はそれをしたくない。野暮ったく思ってしまうからだ。何も言わずに、淡々と書いていくことに粋を感じるし、そんな自分で在りたいと思ってしまうというわけだ。
そもそも、この文章のAI問題は時間とともに解決すると思う。同じ構図をよく見て来たからだ。新しいテクノロジーによって、クリエイターは増えるが、作品の価値は下がる。品質の良い作品が増えるからだ。インフレーションが起こる。すると、クリエイターは減る。元の人口に戻るだろう。とはいえ、そこでのインファッションは、新しいテクノロジーを使ったもの。けれども、オールドファッションは数を減らしても生き残る。それが付加価値と機能しなくてもだ。結局、無差別級な戦いとなって淘汰は起こる。つまるところ、受け手にとっては、作り手ほどAI問題を課題として認識しないと思う。方法は関係なく、より良い文章を作れるクリエイターだけが残るというわけだ。
それでも、AI問題を強く意識する受け手はいるだろう。その層に向かって書くという戦略もあるが、結果として業界の衰退に向かうと思う。読者の心に残るものが「やっぱり生身の人間が書いた文章はいいよね」となりやすいからだ。仮に、良い文章でなくてもだ。それは、業界全体の質を落とすことになる。昨今の原木栽培キノコが不振なのは、その理由もあると思っている。
それゆえに、AIを使っていないことを強くは言わない節もある。仮に、読者としての僕もそうしてほしい。AIを使っていないことを示すことがスタンダードになれば、示していない文章はAIを使っていることを公言していることと同じことになる。そこには、疑いが生まれるということだ。それは不幸だと思う。信じられぬと嘆くよりも、信じて傷ついた方がいい。僕もそう思うというわけだ。
そもそも、僕の中での文章は、読むものではなく、書くもの。写真もそう。見るものではなく、撮るもの。きっと、同じスタンスの人は多いと思っている。インターネット上では物議を醸しだしている問題かもしれないが、大多数のサイレントマジョリティにとっては、どうでもよいことなのかもしれない。つまりは、副業も含めた商業的な視点ではなく、あくまでも趣味的な娯楽の視点で眺めれば、AIが作る文章問題とは対岸の火事。AIが普及しても、過去とかわりなく、明日も皆が文章を作るだろう。noteとは、そういう場所だと。すくなくとも、僕のnoteはそう在りたいと思う。