





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。だが、その役割を全うする上で、致命的な欠陥を抱えている。おそらく僕は、普通よりも他人に対する興味が低い。それゆえに、意識的に他人の興味関心ごとへ近づくことを心がけてきた。だが、それにも限界はあるようだ。いろいろと不具合はある。けれども、そのおかげで手に入れることができたものもあったと思う。
このnoteが続いている理由もそうだろう。誤解を恐れずに言えば、他人への興味が薄い僕にとっては、誰かに何かを伝えたい気持ちも薄い。故に、本来なら、伝える手段としての物書きも、早い段階で終わっているはず。それなのに、細くとも続いているのは、伝える方法の探求の方に、僕の興味関心は向いているのだろう。つまりは、「何を伝えるか」ではなく、「どう伝えるか」。それに対して、おもしろおかしく接しているのだと思う。
この構図は、僕にとっての写真と同じだった。僕の写真にメッセージはない。「何を表現するのか」という問いは、僕の中には存在していない。あるのは「どう表現するのか」という問い。これは、ふたつのアートを大きく分けている問いであろう。これが、僕にとっての文章にも当てはまる。もちろん、伝えたいことはあるが、それ以上に伝え方の技術を模索したい自分がいるというわけだ。
おかげで長く続いている。下手くそでも続けられたわけだ。むしろ、下手くそだからこそ、長く続いているのかもしれない。模索できる幅が広いからだ。そうならば、これからも続くであろう。ただ、ひとつだけ不安なこともある。それは、何かの課題が目の前に現れたとき、その解決方法として、文章の力を必要以上に使おうとしてしまうこと。動画や音声の力が証明されているこのご時世にだ。おそらく、媒体の選択ミスもしてしまうだろう。
振り返ってみれば、僕はいつも文章の力を使おうとしていた。結果は、ことごとく惨敗している。その原因はここにあるのかもしれない。けれども、その事実を知っても尚、また文章でなんとかしようとしている僕がいる。どうしたものか。せめて、僕にもっと文章力があれば違う未来が見えるのかもしれないが、こればっかりは仕方ない。会社の仕事になればなおさらだ。ここにも理想と現実の葛藤がある。
そしてまた、僕は文章を書きだしている。会社の広報の仕事は、利益に繋がらなくても良しとされているが、それでは僕の役割も報われない。年齢的にも、次の者へのパスを考えなくてはならない。それを解決する方法として、また文章の力を選んでしまったというわけだ。
僕は社内で特殊な位置に立っている。古い機械のオペレーターであり、ときには土にまみれ、ときには森の中で過ごす1日もある。白衣を着て繊細な業務を任される予定もあったりする。傍らで写真を撮り、動画を撮り、それを編集して、自分の作った文章にそえたりもする。オールマイティと言えば聞こえはいいが、実態は器用貧乏で、何もできない自分だと思っている。ここから会社の利益を生むには、日々の出来事から生まれる想いや葛藤を綴ることしか思い浮かばなかった。
とりあえず、1ヶ月は毎日更新してみようと思っている。すでに4日が過ぎたが、いまのところは順調。1ヶ月後のことは、そのときになってから考えるつもりだ。業務の負担になっていなければ続けるし、無理なら辞める。ただ、楽しさだけが残った場合は判断が難しい。そのときは、仕事としての運用は辞めて、こっちのアカウントに合流させてもいいのかもしれない。なんにせよ、楽しい1ヶ月となりそうだ。