





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。兼任の業務とはいえ、最近は仕事がたまりはじめている。月のサイト更新に加えて、動画編集や、写真を利用したプロダクトのデータベースの構築管理、イベントやリーフレットの企画などなど。社内報の発刊も加わり、社長からは「編集長w」と呼ばれたりもした。
増えたのは打ち合わせ。関わる人も多くなった。関わる深さも然り。炙り出されたのは僕の価値観。そこにも多様性があった。ズレている。そこを修正しながら作業を進めた。僕の中での働く意味は、自己表現のそれではない。相手の表現の手助けに、自身の熱を感じる。とはいえ、僕のズレの先も気になる。どうしたものか。それすらも、相手の糧になればと思っている。
僕のズレは、今にはじまったものではない。故に、原因も分かっているつもりだ。おそらく、考えたいのだろう。好奇心と言えば聞こえもいいが、本線からの脱線である。手段の目的化だ。プライベートな思考なら問題ないが、仕事の打ち合わせ中なら、修正も必要というわけだ。
だが、僕は自身のズレが好きだ。考える隙を与えてくれる。結局、写真もそのためのものなのかもしれない。仕事もそうだった。なんなら、学生の頃の勉強もそうだったと思っている。
最近では、哲学の文脈もそう。長年にわたり誤解をしていた哲学だが、「再現可能性のある科学」という側面もあると、どこかで聞いて、そこから興味を持ちはじめた。まずは本を読んでみた。「現代思想入門」。おもしろかったが、途中からは飛ばし読みに落ちた。原因は思考の脱線。その構造そのものを考えたかった。文面から伝わってくる、役立ちの意。手段を目的にしている僕にとっては関心が低い。故の脱線。最後の方は飛ばし読みにすらなっていなかったのかもしれない。
なぜ人は、二項を対立させて考えてしまうのだろうか。推測が止まらなかった。僕が写真のために構築した考え方で紐解けば、個々人に多様な価値観を持たせるためには、それがシステム的に効率がよかったのだと思う。個別に違った方向性を持たせるよりも、すべての個体に真逆なふたつの方向性を持たせて、その出力差で多様な価値観を持たせているのだろう。シナプスに関わるタンパク質の親和性で、グラデーション様の多様な価値観を構築できるというわけだ。
そこまでして構築した多様な価値観で、生命圏の存続は強固なものになっている。徹底的なリスクヘッジは、種の多様性にとどまらない。僕らが争い続ける理由も、価値観の多様性を保つためだろう。よくできている。
だが、そうではない理由を求めてしまう。価値観の多様性とは、人が人として尊厳ある暮らしを送るためのエッセンス。そう考えたいが、その理由も淘汰の結果なのだろう。なにも適者生存だけが結果ではない。生への執着と、強い自尊心を持った個体が残る。だからだろうか、価値観の多様性を認め合うことが叫ばれる昨今だが、生への尊厳だけは、ひどく画一的な価値観に思える。その結果、思考も偏り、真理に辿りつくことはもちろん、理解すら難しいことになってしまった。故に、客観視はできず、この構造を解析して最適化することもできない。つまりは、この構造がより強固になるというわけだ。『人中心的思考』と言ってもいいだろう。ほんとうによくできている。
なにより、この構造に意思がないことが人にとっては一番の驚きだと思う。驚きを通り越して絶望すら感じる。人はもとより、生命は特別な存在ではないからだ。すべては物理法則の上で流れている現象の瞬間的な結果なのだろう。混沌へ向かう流れの中で、逆流する存在は無数にある。物を地面に落とせば、音は鳴るし、埃も舞う。太陽が核融合を起こして安定に近づけば、地球上では、風は吹き、水は天に昇り、生命は秩序を構成する。そこには何も不思議はない。仮に、それでも生命は特別な存在だと思いたいなら、それも人の画一的な価値観から生まれる『人中心的思考』の結果なのだろう。
とはいえ、『人中心的思考』というものが本当にあったとしても、そこから構造を解析して最適化することはできないと思う。パラドックスが生まれるからだ。人が人であり生命である以上、どこまでいっても、最適化は行えないはず。そこにも『人中心的思考』があるからだ。だが、おかげで生命の存続は安泰だ。僕らの争いがなくならないことが、その代償なのである。
どうしたものか。やはり、僕のように写真に応用することくらいが最適なのかもしれない。視点を変えれば写真の評価も変わる。景色に紐付ける意味を変えるということだ。『人中心的思考』から脱却した視点から見える景色に紐付ける意味は、例外なく、すべて『理の創痕』と思える。単純な物理法則によって創られた痕という意味だ。海や山、川、草原、雪原、砂漠、岩場、空、雲、夕日、星空、道具、建物、乗物、動物、植物、微生物、そして人。これらをすべて『理の創痕』の意味で眺めると美しく、写真の被写体としても最高なのだ。
だが、やはり腑に落ちない部分がある。まだまだ、僕の知らないことが多いに決まっているからだ。そのためにも、飛ばし読みをしてしまった本は、いまいちど熟読する必要があると思っている。故に、最近は通勤用カバンの中に、一冊は入れておいた。おかげで、知りたいことが増えた。おそらく、僕は僕の仮説を否定することができるようになるだろう。それは悲しくもなく、なぜか嬉しくも思えた。