





茨城の郊外で暮らしている。僕は短期転勤族だ。とはいえ、ここへの転勤で2回目。まだまだ駆け出しの身。短期転勤族と名乗ってはいるが、その肩書は、僕の理想と野望を込めたもの。できれば、そうありたい。『僕の思う最高の1枚』を目指して写真に取り組んでいるが、そのためにも、転勤を利用して各地を転々と暮らし周りたいのである。
だが、ひとつだけ不安なことがある。それは、僕が結婚しているということだ。歳は30。嫁さんはもう少し若いが、同じ世代といっても差し支えないだろう。僕らに子供が授かっても不思議ではない。そうなれば、きっと、日々の暮らしは激変するだろう。写真はおろか、短期転勤も難しくなるかもしれない、というわけだ。
故に、その辺りの計画は、以前にふたりで話をしておいた。かしこまって話し合う内容かもしれないが、あえて雑談のように話したことを覚えている。結論はこうだ。「あまり深く考えないでいよう」。子供が授かれば、人にとって普遍的で幸せな普通の暮らしが待っているかもしれない。けれども、僕らは短期転勤族を理想としているほど変わっている。きっと、子供が授からなくても、幸せであり、それはそれで普通な暮らしが待っているだろう。つまるところ、どっちに転んでも幸せになれるということだ。ならば、あまり深く考えず、ときの流れに身を任せるのも良いのではなかろうか。仮に、短期転勤が叶わなくなっても、不幸にはならないだろう。そう考えれば、恐れるものは何もない。嫁さんの妊娠が分かったときも、あたふたすることはなかった。
そのときは唐突に来た。リビングで破水した嫁さんは動けなくなってしまった。僕が無理に動かそうとしても痛がるので、早々に救急車を呼ぶことにした。大丈夫、準備は万端だ。予行演習も行っていた。電話でのやりとりもシミュレーション済み。慌てることなく、淡々と状況と住所を伝えた。深夜だから、サイレンの消音もお願いしておいた。
救急隊員が到着しても、僕の冷静さに変わりはない。嫁さんの搬送をフォローしつつ、僕の出発用意に取り掛かった。間違いなく、嫁さんは入院する。その準備も半分はしておいた。大きなカバンに必要最低限の荷物を放り込む。家の戸締まりをし、車でひとり病院へ向かったのであった。
分娩室の外廊下で待っていると、程なくして赤ちゃんは生まれた。母子共に健康。その後も予定通りのスケジュールが消化されていく。僕は1週間の育休をもらった。勤め先にも歓迎された。育休は若い子からの憧れの対象にもなったようだ。良い職場でよかった。休み中にやることは、家の中の配置転換。妊娠中モードから、子育てモードへ変更。久しぶりの独り暮らしだが忙しかったのである。
そして、はじめて3人で帰宅した。いつもなら、「ただいま!おかえり!」と言うのだが、この日は「いらっしゃい!」の言葉も自然と加えていた。なんだか、くすぐったい。あまり深くは考えずに選んだ暮らしだが、やはり楽しそうでよかったのである。
栃木の郊外で暮らしている。僕は短期転勤族だ。すこし前までは茨城に住んでいたが、子供が授かり、隣の県へと引越した。丁度、家が手狭だと感じ始めたときに舞い込んだ異動の話。断る理由はなかった。おかげで、広いリビングのあるアパートへと鞍替えできたのである。
子育ては思っていたよりも大変ではなかった。大変なことは事実だが、過大に恐れていたようだ。たしかに、深夜でもタスクはある。けれども、子供が生まれる前でも、深夜まで起きていることは珍しくなかった。むしろ、規則正しい生活となって、活動時間は長くなった気もした。もちろん、子供に取られる時間は膨大だ。自由な時間は確実に減ったと思う。だが、それもまた一興。そうも思えた。深夜2時、寝ない子供を抱いてリビングのテーブルをひたすら周ったが、さほど楽しくも無いが、苦でもない。そんな暮らしもいいと思えた。
僕の給料はあまりよくない。日本の平均を下回っている。けれども、嫁さんは専業主婦だった。親からの支援も無ければ、副収入も無い。とはいえ、出費を切り詰める生活はしていなかった。酒やたばこ、ギャンブルはしないし、お金のかかる趣味はフィルム写真くらいだ。月に1万もあれば、余裕で満足できてしまう。そして自炊率も高い。つまるところ、お金の心配はあまりない。故に学資保険くらいは入ることにした。それでも、お金のことで大変になることもなかったのである。
子供の成長はおもしろい。できなかったことが、時間とともにできるようになっていく。首が座って、寝返りを打って、はいはいで歩き回り、二足歩行をはじめる。だんだんとご飯を食べるようになって、声を発するようになって、いつのまにか喋り出す。
失敗しても怒る気にはなれない。栃木の新居では、初日のお風呂で茶色いものが浮かんできた。両手でも持つコップをずっと見つめていると思ったら、次の瞬間には頭の上から行水していた。嫌いなホウレン草のペーストは、飲み込めずに口の中で6時間も咀嚼していた。おもしろい。きっと、赤ちゃんのいる暮らしの真っただ中。これが人としての幸せなのかもしれない。そんなことを思った。
けれども、心配なこともあった。それは、僕の親になった心境の変化だろう。どうも思っていたものとは違うようだ。子供はかわいいのだが、どこかで冷めている自分もいる。子供が授かったと分かったとき、生まれたとき、泣いて喜ぶことが普通かもしれないが、僕はそうではなかった。
仮に、子供が命の危険にさらされたとき、僕は自分の命をなげうってでも助けることができるのだろうか。正直に言うと、自信は無い。自分の命の方が大事とまでは言わないが、子供の命の方が大事とは言い切れない僕がいる。もしも、その場面になったら、中途半端な振舞いをしてしまう気がした。
他にもある。「大人になったら一緒に呑みたい」。そんな話はよく聞くが、そんな想いはまったく生まれてこなかった。将来の姿もそう。幸せになっては欲しいが、抽象的な理想像すらもない。多くを求めない『良い親』に見えるかもしれないが、実際は興味が薄いだけなのである。
親になれば、自然とそういう感情や行動は生まれるものと思っていた。けれども、実際は何も変わらない。ずっと昔からの地続きな自分がいる。もしかしたら、僕だけが変われなかったのかもしれない。親にはなれなかったというわけだ。
それでも子供は成長する。僕はそれを見ていたい。大きなカメラを買った。新品のPENTAX 67Ⅱだ。デジタル機の進化が目まぐるしい昨今だが、67中判フィルムでは、まだアドバンテージがある。最初の1枚になる被写体は、子供と嫁さんのツーショットと決めていた。撮れた写真はお気入りとなった。慣れないカメラのせいで、技術的にはイマイチだが、確かにお気に入りの1枚となった。僕は親失格かもしれないが、今は今を楽しもうと思う。
札幌の郊外で暮らしている。僕は短期転勤族だ。念願の北海道生活。これを得るために短期転勤を繰り返してきた。子供ができて、この野望の達成にも不安が付きまとってはいたが、現状では問題なかった。子供が小さいからだろう。まだ未就学児だからだ。通う学校があれば、また別の結果になっていたかもしれないのである。
なにより、嫁さんのおかげだと思っている。僕は、その苦労を分かるとは言えない。手伝いはするが、あくまでも手伝いだ。外で働いている分も考慮してもらっている。どこまでいっても、育児と家事を半々にはできなかった。ただ、転勤を望む気持ちは、僕よりも嫁さんの方が大きかった。「暮らすように旅する」という言葉はあるが、僕らは「旅をするように暮らす」を実践している。それが楽しい。費用も大半が会社持ちだから尚更だ。
とはいえ、子供が生まれてから、休日の遊び方は変わった。以前は、午後から動くことがほとんどであった。それが、午前の早い時間から動き出すようになった。朝食のついでにお弁当も作る。もっぱら、おにぎりだ。焼きそばやオムライスの時もあるが、9割はおにぎり。鉄鍋で炊いたごはんは最高に美味い。ラップに包んで三角形に。空気を含むように握る。形は崩れないが、口の中では、ほろほろと米粒が踊る。だいぶ上手くなったと自覚している。遊びに行く前から楽しいのである。
3人でお出かけ。僕の写真に付き合ってもらうことが多い。出発は朝で、夕方には帰宅。その後は、ごはんを作って、お風呂に入って、子供は8時には就寝。休日の予定はこんな感じ。楽しい北海道生活は、想像よりも上をいっていた。
だが、こんな暮らしも長くは続かなかった。嫁さんが再び妊娠したのである。臨月に向けて、徐々に3人でのお出かけは減っていった。つまるところ、長男とふたりでのお出かけが多くなったのである。
寂しさはあったが、別の楽しさもあった。山へ、川へ、海へ。どこまでも着いてきてくれる。ハードな場所は避けていたが、それでも楽しかった。車の中で食べる昼食も変わらない。変わったことといえば、嫁さんと長男のツーショット写真は無くなった。代わりに、長男のポートレート写真が加わった。写真以外で遊ぶことも多くなったと思う。山では、森の遊歩道がお気に入りのようだ。海では、砂浜で石を拾うのが義務らしい。どうやら、お母さんへのお土産にするつもりだそうだ。
そんな暮らしの中で、無事に次男が生まれた。それでも、お出かけの回数は変わらなかった。むしろ、ただの買物も長男と出かけるようになった。嫁さん曰く、すこしでも長男の相手をしてくれると助かるらしい。結果的に、長男と過ごす時間が増えたと思う。時間が経てば、4人でのお出かけも増えてきた。けれども、長男とふたりでのお出かけも、無くなりはしなかった。
最初は、子守の意味合いが強かったと思う。けれども、途中からは、その意味も消えていった。単にふたりで遊びに行くことが楽しかったのである。「友達」とは違うと思う。叱るときは叱っているからだ。とはいえ、想像していたものとは違った。もちろん、上下はある。けれども、並列なときもある。とはいえ、なんでも話し合える間柄ではない。気は使っている。長男が僕のことをどう思っているかは分からないが、深く詮索しようとは思わなかった。そこには信頼があったと思うからだ。不思議な関係だ。これが正解かどうかは分からないが、居心地がいいのは確かである。
ただ、そんな暮らしにも変化が訪れた。異動の辞令が出たのである。僕からの異動願ではない。相手側の都合である。僕が何かをやらかしたわけではない。その上で、やれることはやったが、結果は変わらなかった。これは仕方ない。異動先は本州だ。寂しいが悲観はしていない。きっと、そこでも楽しい暮らしが待っているはずだからだ。その頃になれば、僕と次男との関係性も構築されているだろう。それが今から楽しみなのである。
宮城県の仙台市で暮らしている。僕は短期転勤族だ。既婚で、子供はふたり。ふたりとも男の子だ。すこし前までは北海道に暮らしていたが、会社の辞令に従い、仙台市に移り住んだというわけだ。
日々の暮らしは、あまり変わらなかった。強いて言えば、アパートが寒かった。とはいえ、借りた部屋が周りと比べて、格段に寒かったわけではない。北海道の家が、暖か過ぎたのだろう。壁の厚さが違う。ガラスもすべて2重であった。それらと比べても仕方がない。おそらく、僕の北海道暮らしへの未練がそう思わせるのだろう。その思いを消すことが、仙台での暮らしを楽しくさせるコツだと思っている。
北海道暮らしの未練を消すことは簡単だった。仙台は食べ物が美味いのである。有名どころでは『牛タン』等々があるが、それらを忘れるほどの豊富な美味い食材が僕を待っていた。たしかに、北海道の食材も美味かった。ウニ、カニ、イクラは別格だろう。けれども、それらは日常の食卓には並ばなかった。値段が高すぎた。子育て世帯には無縁だろう。とはいえ、日常でも満喫できる食材はあったが、数は少なく、季節を通して満足することはなかった。そこへいくと、仙台は安くて美味しい食材が豊富な印象だった。漁港が近くにあること、種類が豊富なこと、人口が多く流通が整っていること、それだけで魅力的な地域と思える。他にもローカルでしか知られていない食材がいっぱいだ。それだけで、僕の中にある北海道暮らしへの未練を消し去るには充分なのである。
ただ、そのような暮らしも長続きはしなかった。大きな地震の影響で、当たり前だった暮らしも消えたのである。その日、僕は市内の中心部にいた。怪我はなく、命の危険にさらされるようなことも無かったのだが、自宅へ帰宅することには苦戦した。家に着いたのはPM 9:00すぎ。電気は止まっているから、部屋は暗闇なのだが、すでに布団が敷かれて、嫁さんと子供ふたりは就寝していた。どうやら無事だったようだ。
「なんで揺れてるの?」。あのとき、長男は嫁さんにそう質問したらしい。思い返せば、大きな地震は初体験であった。「んー、おうちさんがバスに乗ったのかな?」。なぜに嫁さんは比喩で答えたのか分からないが、どうやら、パニックとは程遠い心理状況だったようで、それはそれで安心した。
地震のときの身の振舞い方は、以前から決めていた。なんなら予行演習も行っていた。まずは机の下に隠れる。おかげで、子供たちもパニックにはならなかったようだ。他にも、地震のための準備は行っていた。仙台への転勤が決まったときも、家は津波の心配がない内陸部にしておいた。食料の備蓄も少なからず用意していた。おかげで、僕ら大人もパニックにならずに済んだというわけだ。
だがしかし、不安なこともあった。子供はまだ小さいのである。そもそも、地震の発生時、嫁さんは風邪をひいた次男を病院へ連れて行く準備の最中であった。もちろん、その日は病院へは行けず。とはいえ、翌日には緊急に開かれた診療所で診てもらうことはできた。熱も出ていたから心配であったが、結局、小さな子供がいる家ということで、周りも心配してくれて、診療所の情報も早くにまわってきたというわけだ。
そう、まわりが心配してくれたのである。これは本当にありがたかった。職場でも、休みを融通してくれた。食料の配給も、僕を優先的にしてくれた。アパートのガス燃料は共有のプロパンであり、節約することを住民で決めていたが、僕の家だけは使っていいと言ってくれていた。
他にも、このようなエピソードは多々あった。僕はこれを当たり前だとは思わないことを心がけた。同時に、本当に困ったときは、遠慮なく甘えることにもした。そうすることが、今できる最高の恩返しだと思ったからだ。いつしか、僕が心配できる側の人になったとき、僕は今回のことを思い出すだろう。きっと、そのときに恩は返せるはずだ。別の人に返すことになるが、誰も怒らないと思う。すこし大げさな話にはなるが、「持続性のある社会の循環」とはそういうことを指すのかもしれない。そんなことを思った。
山形の郊外で暮らしている。僕は短期転勤族だ。以前は、隣の宮城県は仙台市で暮らしていたが、大震災による配置転換の一環で転勤してきた。慣れた引っ越しだったが、今回は後ろめたいものもあった。被災地から逃げ出したようで、頑張っている人を置き去りにしてきたからだ。とはいえ、大震災からは半年以上も経っている。そう思う者も少ないだろう。
山形での暮らしも楽しかった。仙台に続いて食べ物がおいしい。特に牛肉。銘柄牛が豊富なこともあるが、割と安く提供してくれる小売店の存在が大きい。内陸の盆地だが、魚介類も美味しかった。太平洋側の漁港も通える範囲。安く手に入れた魚1匹をさばいて食した。美味しいことはもちろん、楽しいので娯楽としても満足度は高い。ふたりの子供もよく食べてくれる。欠点といえば、子供が美味しい味を覚えてしまって、残念な食材のときは食が進まなくなったことぐらいなのである。
山形で暮らしはじめたのは、雪の降り積もる厳冬期。北海道を含めて、今までに雪国生活は数をこなしてきたが、山形が一番に積雪量が多かった。これは地域性ではなく、暮らした月日のタイミングによるものだと思うが、それでも、疲弊するには十分な積雪量であった。
自然と家の中で過ごす時間が増えた。写真も料理を映したものが増えていった。エンゲル係数も上がったと思う。子供がいるので尚更だ。それでも、珍しく美味しそうなものは食してみたくなる。だが、そのようなものは、決まって数が少ない。誰かが我慢する必要がある。僕は親失格かもしれない。すべてを子供に譲ることはしないのだ。とはいえ、子供たちも興味津々。「美味しい!」と言えば、「ちょうだい!」と返事が返ってくる。しかし、感情は表したい。嫁さんと共感したいのだ。
そんなときは「美味しい!」の代わりに「がぼい!」と言うことにしている。それを聞いた子供たちの頭の上には「?」が浮かぶ。すると、何かを悟ったかのように、諦めてくれるのだ。はじめは、辛いものだった。刺激の強いものや、感染症の恐れがある「ハチミツ」もそうだったかもしれない。説明しても涎は止まらなかったので、いつしか、子供に食べさせたくないものは、美味しくても「がぼい!」と言うことにしてしまった。
息子たちよ、申し訳ない。本当は美味しいのだ。量が少ない貰い物のクッキー、入手が難しいシュークリーム、高級なチョコレート。もっと大きくなったら、一緒に食べよう。「がぼい」の意味も、そのときに説明させてくれ。今から、彼らの18歳の誕生日が楽しみなのである。
奈良の郊外で暮らしている。僕は短期転勤族だ。すこし前までは東北で暮らし、その前は北海道で暮らしていた。おかげで、関西は南国に思える。いろいろと暑い。僕は写真が好きだからか、この地も気に入っている。寺社仏閣が多いのだ。とはいえ、次の転勤はいつ決まるか分からない。だから、気になるスポットは、はやめに制覇しておきたい。平日は仕事で忙しいが、休日はもっと忙しいのである。
有名なスポットは家族4人で出かけた。歩く距離が長そうな場所はひとりで。けれども、それらは回数が少ない。イレギュラーなお出かけだ。多いのは長男とのふたり旅。まだまだ長男も小さいから、気を遣うことは多いけれども、慣れたもので、特殊なペースもだいぶ板についてきた。それが心地よかったりするのだが、長男はどう思っているのだろうか。とりあえずは、毎回楽しそうにしてくれているので、こっちも安心しているのである。
そんな長男も園児となった。通園には電車も使う。心配極まりない。お友達とは仲良くできているのであろうか。ごはんはちゃんと食べられているのであろうか。先生の言うことは守っているのであろうか。はて、先生は良い人なのであろうか。悩みは絶えないのである。
お弁当も持参だった。僕は家のごはん係だが、長男の弁当作りは嫁さんに任せた。なんとなくだ。嫁さんもごはんを作れる人。結婚当初は、僕よりもはるかに上手かった。今では五分五分になったと思っているが、実際のところはどうだろう。僕は自分の弁当は自分で作っているが、最近はずっと手を抜いている。ごはんとウインナーとほうれん草炒め。これが毎日続く。色彩も地味だ。これでは長男がかわいそう。かといって、朝から頑張るのはだるい。故に、嫁さんにお願いしたというわけだ。
嫁さんの作るお弁当はカラフルだった。赤と緑がよく入っている。もちろん、美味しい。僕の弁当もついでに作ってもらうようになって、昼休みがすこしだけ楽しみになった。きっと、長男も同じ思いだろう。
イレギュラーは突然やってきた。嫁さんが熱を出したのである。この日は長男の遠足日だというのに。僕は仕事場に休みの連絡を入れた。そして、お弁当を作った。大丈夫、食材は嫁さんが購入済み。作るものも決まっている。ハンバーグ弁当だ。2人分作った。長男の分と僕の分。そう、嫁さんの代役はお弁当作りではない。遠足の同行も引き受けたのだった。
遠足の行き先は、近くの公園だ。とはいえ、大きな大きな歴史ある神社の境内にある。同行とは何をすればいいのだろう。僕は焦った。準備ができない。お母さん同士のコミュニティにも参加しなくてはならないのだろうか。そうなれば、僕は終わる。不安で仕方ない。そうなれば戦略はひとつであった。孤高にひとり見物する。腕組みなんかもして。そうだ、大きなカメラを持っていけばいいだろう。僕は、長男をじっくり観察する父親を演じることにした。おそらく、演じる必要はないだろう。それが楽しそうに思えたからだ。
結果的に、遠足は楽しかった。いつもとは違う長男の姿も見られたと思う。もちろん、写真も撮れた。一緒に食べたお弁当も美味しかった。長男も楽しそうでよかったのである。
家に帰れば、嫁さんの熱も下がっていた。長男はお母さんにいろいろと報告している。僕も、いろいろと報告した。突然に訪れたイレギュラーであったが、得るものが多かった。嫁さんの仕事は大変。長男もいろいろと頑張っているようだった。僕もがんばろう。そう思えたのである。
大阪の郊外で暮らしている。僕は短期転勤族だ。関西へ移り住んでから1年以上が経ち、子供も3人に増えた。上から男の子、男の子、女の子。なにかと「女の子でよかったねー」と言われる。おそらく、僕が女の子を欲しくて、3人目も望んだと思われているのだろう。そんなことはないのに。正直、そこにも無関心でいた。なんとなく、3人くらいと思っていただけで、性別はどうでもいい。とはいえ、嬉しくないわけではない。子供の性別という、ちょっとの変化は、スパイス的に嬉しかった。
ただ、子供が3人に増えたことによって困ったこともある。僕の車は4人乗りの5ナンバーだ。正確には『初代シビックTYPE-R』である。5人家族となったことで手放すことにした。家族が増えて、スポーツカーを手放す話はよく聞くが、その当事者になってしまったというわけだ。
子供に関する困りごとは他にもある。長男は小学生となった。次男も幼稚園生だ。父親の職業を知っておかないといけない年齢に入ったと思う。そのうち、学校の宿題で、父親の職業について調べることもあるだろう。だが、僕は仕事のことを子供たちには話していない。実験動物技術者だからだ。この職業を理解するためには、思考の経験値が必要と思われる。彼ら彼女らには、まだ早すぎるのだ。肯定するにしろ、否定するにしろ、考え方が偏ってしまう恐れがある。故に黙っていたが、そろそろ、その問題にも真摯に向き合う必要があるのかもしれない。
困りごとはまだある。大阪は都会だ。正直、暮らしづらい。だが、僕もいい歳だ。現場ではマネージャー的な振舞いを期待されている。給料も上がった。短期転勤族を続けられない可能性が高い。次は香川県の事業所を狙っていたが、それもどうやら無理のようだ。むしろ、大阪で骨をうずめてほしい話も出てきている。どうしたものか。趣味の写真もすこし行き詰まっている。大きな決断をするなら、年齢的にも今なのかもしれない。
1時間も考えた末、僕は転職することにした。未練のあった北海道での暮らし。できれば、そこへ移り住みたい。定住することで、子供たちの出身地も言いやすいものになるだろう。転校も防げる。僕の職業はなんでもいいが、できれば胸を張って言えるものがいい。日常的に写真を撮れる環境ならば尚更だ。
そんなことを考えはじめてから半年後、僕は北海道の十勝で暮らしはじめていた。いろいろと苦労するかもしれないが、子供たちは楽しそうだ。後悔が無いとは言えない。けれども、良い選択だったとも言える。結局、短期転勤族を辞めることになったが、それも前向きの決断だった。不幸になったとは思えない。僕の理想が変わったのである。それもみんな子供たちのおかげだ。きっと、これからも幸せで普通の暮らしが待っているだろう。
十勝の田舎町で暮らしている。僕は地域おこし協力隊だ。任期後の就農を目標に、今は農家さんの元で研修に励んでいる。正直に言うと、給料は少ない。けれども、ここは十勝だ。お金を使わなくても楽しいことは多い。子供たちはアイススケートをはじめた。町のスケートリンクは無料で使用できる。ありがたい。僕も滑ってみたが、散々だった。やはり、僕はスキーの方が性に合っている。大丈夫、スキー場もオープン初日はリフト料も無料だ。それ以外の日でも安い。場所も家から近い。雪の降る冬季でも忙しいというわけだ。
逆に、夏季は時間に余裕がある。それでも暇はない。日帰りの行動範囲には十勝全域はもちろんのこと、富良野エリアも近い。頻繁には行けないが、札幌もその範疇である。とはいえ、子供たちは学校で忙しい。基本的に町内から出ることはあまりない。平日は、しっかりと宿題は出る。親としては、宿題がちゃんと終わるように策を講じなければならない。そこでとった僕の行動は、宿題の取り合いであった。
隙を見せると父ちゃんに宿題を取られる。子供たちにとって、宿題はそのような存在となった。はじめは、おもしろ半分で子供たちの宿題をやってみただけであった。すると、なぜか分からないが、楽しかった。ただのドリルなのに。それからは、隙を見ては勝手に宿題のドリルを進めるようになった。大丈夫、えんぴつで薄く書くから後で消せる。子供たちは、僕に文句を言いながら、必死で消しゴムを動かしていた。その後は、僕に見つかる前に宿題を終わらせるようになった。結果的にそれが習慣になったから、良い策だったと思う。「勉強は娯楽」。我が家の家訓も生まれたのであった。
家訓は他にもある。今の時代、ゲームくらいできなくては駄目だ。故に、ゲーム機も購入した。子供たちもよく遊んでいる。とはいえ、初期の頃は泣きながらコントローラーを握っていた。「遊びは本気で」。それも家訓である。ひとつのゲームをクリアするまでは、他のゲームは禁止してある。安易な諦めも許してはいない。故に、悔し泣きしながら、ゲームに打ち込んでいたというわけだ。おかげで、長男はゲームが上手くなった。初期の頃は、僕がマウントできるくらいの実力差があったが、今では負けることも多いのである。
つまるところ、本気で取り組むことは楽しいのである。きっと、それが幸せな暮らしに繋がると思っている。本気で取り組んだ結果の失敗や成功は、あまり関係ない。どうか、そのことに気付いてほしい。これは言葉では伝わらないだろう。経験から知ることだと思う。だから、本気になれるものだったら何でもいい。ゲームでもいい、勉強でもいい、アイススケートでもいいというわけだ。
などと偉そうに子供たちへ押し付けているが、僕は大丈夫なのであろうか。「仕事は娯楽」。これもそのうち家訓になるだろう。今はそれを証明するためにも、地域おこし協力隊の仕事を本気で取り組むのである。
十勝の田舎町で暮らしている。僕はきのこ農家だ。経営はあまり上手くはいっていないが、僕の育てる農産物の評判は上々である。やれることはすべてやるつもりだ。難しい品種の栽培にも挑戦する。ブランドも立ち上げた。直売所も手作りだがオープンした。クラウドファンディングの準備も進んでいる。休みはない。毎日が忙しいのである。
とはいえ、家族の時間を犠牲にするほどの忙しさではない。むしろ、サラリーマン時代より、子供たちとの接する時間は長くなった。家のごはん係も続けている。夜ごはんのみとなったが、変わらずに作り続けているというわけだ。
日常の献立を考えるにあたって、子供たちからのリクエストはありがたい。「カレー」や「ハンバーグ」あたりのリクエストが多いが、割と1位は「餃子」である。次点で「ピザ」。「オムライス」も多い。「寿司」や「焼肉」も多いが、「ポテトサラダ」や「肉じゃが」なんてものも上位に来る。どこで覚えたのか、「しゃぶしゃぶ」や「すき焼き」も忘れた頃に。それら、値が張る献立は、あまり頻繁には期待に応えられないから、いつしか正月メニューの行事食のようになった。とはいえ、「しゃぶしゃぶ」と「すき焼き」を別々に作ったりはしない。そこは合体させて「すきしゃぶ」となっている。
そう、我が家の料理はすこし変わったものが増えてきた。「すきしゃぶ」もそうだが、寿司も我が家では「にぎらずし」である。「そば」や「うどん」、「ラーメン」も、大皿に麺を一盛にして、皆で突っつく「つけ麺」方式。ホールケーキも、切らずに皆がスプーンで突っついて食べたりもするのである。
おそらく、我が家は変わっているのだろう、いや、おそらくどこの家も、これくらいのオリジナリティはあると思う。料理に限らず、家訓であったり、何かに対する考え方も、十人十色のように、十家族十色なのだと思う。
クリスマスプレゼントの考え方も変わっているかもしれない。僕は、あげたいものをあげるようにしている。普段なら、教育とか躾の要素も踏まえないといけないが、クリスマスプレゼントだけは、それらを度返しにして、おもいっきり甘やかすものをあげるようにしている。大丈夫、親である僕からの贈り物ではない。サンタクロースという謎のおじさんからの贈り物だ。僕が甘やかすことにはならないのである。つまるところ、サンタクロースとは、本当は子供を甘やかしたい親の心が作った、架空の身代わり像であろう。彼のおかげで、後先関係なく子供を甘やかすことができるのだ。
クリスマスイブの日は、豪華で子供たちのリクエストにも応えたような料理を作った。気付いていないと思うが、その日は栄養バランスを考えていない。ただただ、子供が喜ぶものを作っている。それもサンタクロースからの贈り物と思ってくれたら御の字だ。
十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。きのこ農家は廃業して、今は再びサラリーマンをしている。3人の子供たちも、だいぶ大きくなった。いろいろと思考も深みを見せはじめている。家族とは違う組織の顔もあるようだ。ちゃんと反抗期も迎えている。対応がめんどくさいと感じる一方、着実に成長している証だとも思え、すこし安堵し、嬉しく思えた。
おそらく、二次反抗期とは、親元から離れるためのブースター的な役割を担っているのだろう。これがなければ、いつまでたっても独り立ちはせずに、人という名の種の拡散も遅々として進まないからだ。そう考えれば、二次反抗期を迎えるということは、独り立ちの準備が整ったことを意味しているのではなかろうか。つまるところ、子供たちが僕らから巣立つ時期も近いということだと思っている。
それは、子育てが生物的には上手くいっていた意味も表していると思う。いや、そう思いたいだけかもしれないが、その結果は、ずっと分からないままな気もする。正解がないからだ。そもそも、評価するタイミングも分からない。成人を迎えたときなのか、それとも還暦を迎えたときなのか、死の直前なら僕らがいない確率の方が高い。評価する僕らの方にも問題がある。何者でもない僕らの評価に、何の意味があるのか。つまりは正解がないわけではない。僕らにも正解が何なのか分からないというわけだ。
冷徹に考えれば、人、もとい生命の存続戦略的には、今この瞬間に存在していることが正解なのであろう。「生まれてきてありがとう」という言葉は、親の喜びとは別に、すべての生命体からの祝福であり感謝だと思う。生きる意思を強く持っていれば尚更だ。そう考えれば、この問いの答えは、とうの昔に出ていたことになる。それでも不安に思うのは、子供に対する期待が過剰なのかもしれない。
できることなら、今と変わらぬ世界で、幸せに暮らしてほしい。これが僕の本音だ。過剰な期待かもしれないが、そう思うことは仕方ないと思っている。それが人であり、生命を宿した一個体である証だからだ。僕はきのこ農家だった。廃れ行く技術と文化を次世代に繋げたかったが、失敗に終わった。そして今、サラリーマンとして、別の技術と文化を次世代へ繋げる努力をしている。すべては過剰な期待のための振舞いなのかもしれない。
だからこそ思う。子供を育てるということは、余人を以ては代えがたい仕事なのだと。それがなければ、繋ぎたい次世代も存在はしない。故に、僕はすべての親に敬意を覚えた。人に限らずだ。けれども、それを表わす言葉は口にしていない。なりたくてもなれない人もいるからだ。けれども、そのような人たちにも敬意を覚えている。親になりたいと思うだけで、その対象になり得るからだ。流されて親になった僕より、よっぽど人らしく、その思いも強いのだろう。身体の機能的な差は些細なことだ。人格とは別なところにある。性別や肌の色、指向の方向性、容姿の整い方などと同じであろう。誤解を招く恐れがあるから口にはしないが、敬意を示さずにはいられないのである。
結果的に、僕も次世代へ繋ぐ振舞いをみせていた。だが、それは特殊なことではない。転勤を繰り返したり、転職もしたから、すこし人とは違う道を歩いたかもしれないが、僕にとっては、そこにもレールがあり、それを辿っただけで、道なき道を進んだつもりは毛頭なかった。
つまるところ、普通に生きた結果がこれだった。とはいえ、僕はまだ現役世代。振り返るにはまだ早いが、幸せな暮らしをしていたと思う。そしてこれからも、きっと幸せな暮らしは続くだろう。僕は、いつまでも普通に生きていくからだ。