





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。通勤距離は長い。車で1時間。直線が多く信号が少ない十勝のそれは、新宿から相模湖までの距離。もちろん、朝は早い。寒い時期に家を出るのは暗闇の中。だが、最近は薄明かりの中で出発する。2月を前にして、日の出の時間が早くなったのだ。
車から眺める十勝の景色は、太陽の姿はまだ見えぬものの、天球にはグラデーション状に明るさが灯る。天頂は深く濃い青色。地平線付近は明るいオレンジ。中間は虹のようだ。そこには緑色すらも見える。仮に地球が球体ではなく平面状だったら、この朝焼けは、どう見えるのだろう。太陽光が地球の大気を通る距離が長くなるから、地平線付近は濃い赤色になるのだろうか。グラデーションは、光の回折だけで作られるから、弱くなるかもしれない。それはそれで見てみたい景色だ。
通勤時間は長い。前半と後半で景色も変わる。シルエットだった遠くの防風林も、白銀の樹木へと様変わりしていた。この日の気温は氷点下20℃。流れる川からは湯気も立つ。氷点下の水蒸気は樹木の枝で氷に。つまるところ、白銀の樹木は、雪が降り積もっただけではない。見慣れていない分だけ、美しさも格別。この景色には、希少性も含まれているということだ。
科学はおもしろい。車の運転中に飛び込んでくる景色だけで色々と考察できる。解明されている因果関係は裏切らない。数式で表せるということは、そういうことだ。つまり、未来は決まっている。それも数式で表せる事象の特徴。そこだけを切り取れば、冷徹であり、僕らのアイデンティティーも崩しに来る。僕ら人は「未来は決まっていない」と思いたい存在なのかもしれない。いつまでも、無限の可能性を信じていたい想いがあるのではなかろうか。だからだろうか、科学は、いつの時代も、一定数の人からは嫌われている。これはもう仕方ない。嫌って当然だろう。
でも大丈夫だ。未来は決まってはいないだろう。もとい、決まっていても計算で求めることはできないと思う。その理由は、数式が複雑だからではない。代入する数値の末尾が大きすぎるのだ。すこしの誤差が、解を大きく変える。それは計算機の能力を上げても変わらない。限りなく誤差をゼロに近づけたところで、それはゼロではないからだ。誤差の影響力は無限大。仮に未来が決まっていても、それを知ることは不可能なのである。
そう考えれば、遺伝子が同じ生物でも、個性が違ってくることには納得できる。未来を正確に予測できないということは、計算に再現性もないということだ。仮に、同じ遺伝子からクローン2体を作りだしても、同じ個性の個体にはならないはずである。
けれども、偏りはある。十勝の朝焼けを見れば、大抵の人は綺麗と感じるだろう。無関心な人は少数派だと思う。その差は一体何なのだろう。『価値観の違い』なのだろうけれども、その言葉で終わらせるのは暴力的だと思う。けれども、それで考えを終わらすからこそ、お互いの理解は深まらず、共感も起こらないから、価値観の多様性は保たれるのだろう。
世界は上手くできている。価値観の多様性を大切に保持するならば、お互いが共感しないように努めればいい。距離を詰めれば争いも起きる。無関心でいることぐらいが丁度よい。大切に扱わないことが、一番大切なことなのかもしれない。それよりも、同じ価値観を探して、その話に花を咲かした方がいい。『冬の十勝は景色がいい』。それだけで充分なのである。