





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。とはいえ、その業務は傍ら。だからというわけではないが、給料はあまり良いとは言えない。それでも、転職を考える余地は今のところ皆無。社長に助けてもらった恩もあるが、それ以上に、今の暮らしも悪くないと思うからだ。
というのも、今現在、仕事外で副業的なものを模索している。当初は、業務で行う動画編集スキルを使って、請負の副業をイメージしていた。けれども、どうやら動画編集は僕には向いていないよう。それでスタートさせたのが写真に関する活動だ。冷静に考えれば、将来が安定するはずもない副業なのだが、不思議とその不安から遠ざかることができる。今を生きるとは、そういうことなのかもしれない。
その活動のついでに作った、目的の薄いサイト。ただただ、僕のお気に入りの写真を載せたものだ。想定する閲覧者も自身のみにしている。サイトのデザインは、シンプルを極めたもの。動作も軽い。写真以外の表示は爆速だ。これは以前に作った「分散型サイト」を流用したからである。背景は黒。フォントは白。文章は無い。最低限のリンク構成。これでいい。いや、これがいい。自画自賛が止まらないのである。
つまるところ、このシンプルなサイトが僕の琴線に触れたのだろう。写真もそうだ。僕の琴線に触れている。けれども、万人に対しては受けないだろう。それは自覚している。故に、外に向けた目的があったら、絶対に失敗する代物だ。だからこそ、僕だけに刺さる。考えてみれば、当たり前のことだ。自分の考える『良い』を突き詰めた結果なのだから。
僕は写真のことを『薬』だと思っている。それは抽象的な表現ではない。目から入れる薬だから『経眼薬』と解釈できるだろう。人の進化に対して、写真に限らず画像の歴史は浅い。実物と画像を分けて考えられるほどの進化は、未だに得られていないようだ。つまりは、画像というフェイクで、実物を見たときと同じ反応を得られるというわけだ。
そして、その作用を最大化するための余地もある。写真における表現技術とは、そういうものを指している節もあるのではなかろうか。そう考えれば、個人向けの誂品の作成も可能だろう。僕らには個性がある。価値観も多様だ。本当に『良い』と思える写真に出会いたければ、世間から探すのではなく、自分専用に作った方が早い。そうして作られた写真とそのサイトに対して、自画自賛が止まらないのも仕方ないのである。
僕は、僕の写真が世界で一番好きだ。けれども、そんな想いは特殊ではないと思っている。写真をやっている者は、すくなからず、そんな想いを抱いたことはあるだろう。写真の背景にある物語を知っていることも大きいが、それ以上に自身に対する誂品だからだ。故に、僕はこの想いを特異とは思わない。むしろ、自然な振舞いで必然的であるとも思っている。
サイトはスマホでも見れる。だからか、ついつい、隙間時間に開けてしまう。何度も見返したはずの写真達だが、なぜか気持ちも落ち着いて、何かの原動力になることも少なくない。このサイトを作ってから、写真を撮る回数も少しだけ多くなった。サイトへ載せるために撮っている節も、ゼロではないと思っている。写真のことを考える時間も多くなった。それも、今の暮らしが悪くないと思う理由のひとつになっている気もする。自画自賛はいい。これからも、末永く続けていきたいのである。