





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。仕事場は遠い。車で1時間の距離だ。だが、雪が降ると、通勤時間はさらに伸びる。およそ1.5倍。記録的な大雪の日は2時間以上も掛かった。故に、家を出る時間は早い。暗闇の中でエンジンをかける。大変だが、もう慣れた。そもそも、前職は農家だったから、そこまで早起きは苦になっていない。早くに仕事場へ着くこともあるが、それもよし。始業までの時間をゆっくり味わうのも、洒落なのである。
とはいえ、雪道の運転は嫌いだ。神経を使う。常に浮かぶのは、タイヤが滑ったときのイメージ。故に、安全スピードの運航となる。当たり前だが、これが一番効果的。夏に比べれば、遅いスピードだが、周りを見てもそうしてる車がほとんど。加えて、車間距離も長めにとる。前の車がスピンしても大丈夫なくらいに。つまるところ、時間の余裕が必要。早くに家を出ることが、最大の安全対策になり得るというわけだ。
それでも、怖い思いをすることはある。そのひとつは、後続車の車間距離が短いことだろう。急かされてる気がすることはもちろん、前を行くこちらも、変なことは出来ない制限が加味される。轍にタイヤがとられて、直進時でもスピンのリスクは付きまとう。青信号の交差点でも、止まれない車が飛び出してくることもあった。シカやリスの飛び出しもある。はねられたシカが道路に横たわっていても、暗闇では、ある程度の距離にならないと分からない。それでも、ブレーキを踏めば、すべて回避できる。だが、後ろからの追突は避けられないだろう。そんなイメージが常に浮かぶので、やはり、車間距離も詰められると怖いのだ。
車間距離を詰めることはよくない。けれども、仕方ない部分もあると思う。常に事故を想定しながら生きていけるほど、人は強くない。少なからず、僕の中でもその想いは存在している。車を運転するリスクを冷静に考えれば、誰もが乗ることを躊躇するだろう。それでも、車を運転できるのは、事故を他人事と思えるからだと思う。『僕に限って…』。そんな想いがあるというわけだ。
正常性バイアスも掛かっていると思う。いや、すべてはそれの恩恵なのかもしれない。以前に、雪国で地元の方の車に乗せてもらったことがある。20代の頃にお世話になった悪魔兄さんの車だ。慣れているからなのか、スピードが出ていた。僕は素直に感心していた。慣れれば、このスピードでもコントロールできるものなのだと。しかし、スピンした。そのときの運転者の言葉が忘れられない。「なんで?」。僕は驚いた。つまるところ、リスクは管理されていなかった。運転者は事故の心配はせず、同時に安全についても考えてはいなかった。ただただ、いつもどおりに運転していたらしい。おそらく、正常性バイアスが働いていたと、後になってそんな話をしたことを覚えている。
これはもう仕方ない。正常性バイアスは人の性質そのものだからだ。回避しようとしても無理であろう。それが生物に備わっているおかげで、絶滅を回避してこられたと考えられるからだ。つまり、行動のリスクヘッジがそこに生まれている。津波から逃げ遅れた人もそうだろう。逃げる人と逃げない人。その両陣営がいるから、何が起こっても全滅は免れるのではなかろうか。生命の存続にとって、全員が生き残る必要はない。勝てなくても、負けなければいい。そう考えれば、津波から逃げなかった人を責めることはできない。朧気だが、中指を立てたくなる感情の方向も、見え隠れするというわけだ。
そう考えれば、雪道で車間距離を長くとる者も、そうでない者も、両者が混在している現状が、至極自然と思える。それゆえ、車間距離を詰めてくる運転者に対しても、必要以上に憎むことはできない。彼ら彼女らと僕の違いは、担わされているものが違うだけで、人格を疑う対象ではないからだ。とはいえ、僕の中の担わされているものが、その者への許しを妨げているのも確かだ。どうしたものか。
そう想いつつも、僕の事故歴はゼロ。きっと、これからもそれが続くだろう。そんな僕の中の正常性バイアスは、いつも優しく背中を押してくれる。大丈夫、僕の中の美意識には、後ろを取ることも含まれている。戦闘機のドッグファイトではないが、その感覚も意識的に創り出した。どうしようもないほど後ろの車が怖いときは、安全に抜かしてもらえそうなところで、路肩に寄せてハザードを焚いている。そうすることですべてが治まるというわけだ。そんなとき、決まって思うことがある。案外、雪道のドライブも悪くないものだと。