





僕は写真が好きだ。けれども、悩まされることもある。そのときは、すこし嫌いになっているのかもしれない。それくらいの魅力がある。魔力と言ってもいいだろう。魅了される。酔ってしまう。写真そのものにもそうだが、それにまつわる思考や文化にもだ。故に、自身は正当でしかいられない。自分語りも多くなる。流行りに対しても批判的になりがちだ。パラドックスな言葉を生成するかもしれない。自身が正当でいるために、他人からの評価は不当になることもあるだろう。けれども、それを善としてしまう。他のことなら回避するはずなのに。僕の言う「写真に酔う」とはそういうことだ。
「正解は無い」。この言葉は、写真に限らず、数多の分野で語られる真理のひとつだ。けれども、ここにもパラドックスがある。「正解は無い」という正解すらも否定しているからだ。とはいえ、そんな屁理屈を無視すれば理解はできる。それを発信する者の言いたいことも分かっているつもりだ。同意できるものも多い。だからこそ、そこには無意識でいた。これからも、そうしたい。けれども、考えを止めることはしたくない。いつも、素面でいたい。ただ、その想いも酔いのうちだろう。どうしたものか。ここからは抜け出せないのである。
僕は本当に写真が好きなのであろうか。単に、このポジションの居心地がいいだけな気もする。つまるところ、写真に酔っていたいだけではなかろうかと思うわけだ。心当たりはある。昨年の出張だ。そこには僕の非日常があった。仕事道具としてのカメラもある。撮れるチャンスも少なからずあった。けれども、撮らなかった。スマホのカメラで済ました。すこしの後悔もあったが、それも予測はできていた。つまり、写欲が行動力を超えていかなかったのである。
心当たりは他にもある。今年の年末年始は長い。12連休にもなる。社会人になってからは、はじめてかもしれない。正直、暇を持て余した。だが、その間にカメラは触っていない。撮りに行く予定も立てなかった。確実に、僕と写真の距離感は広がったと思う。ますます、写欲が弱くなったのかもしれない。
だがしかし、頭の中での距離感は以前のままだと思う。そう思いたいだけかもしれないが、撮りに行きたい場所はあった。仕事場だ。新たなイメージを試し撮りしたいのである。そう、今追っている被写体の別な撮り方は、常に考えていた。使用頻度というカメラとの物理的な距離感は広がったが、頭の中での距離感は以前のままだと思う所以はそれである。
ただ、この考えも酔ってるだけではなかろうか。写真を辞めてく人の末期も、こんな感じなのかもしれない。正直、飽きていると思う。風光明媚な風景では刺激が弱い。毎日撮っていた農作物も然りだ。きっと、今追っている被写体も、時間と共にそうなるであろう。だからか、それを正当化する理屈も難解なものになってしまった。おかげで自信も持ち難い。恥じらいすら覚える。正当でいることも危ぶまれる。「酔ってるだけではなかろうか」なんて考えも浮かぶわけだ。
今回も、僕の敵は僕らしい。けれども、僕の味方もまた僕のようだ。今追っている被写体が正解な自信はないが、それを追いかけたい気持ちは本当らしい。それを昇華させる方向を決めるのは僕。つまりは、困ったことに撮りたいものを撮れることには変わらない。結局、2026年も今まで通りが、良くも悪くも続くみたいだ。