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#259 僕の写真の第3フェーズ

十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。最近になって取り組んでいるのは動画作成。なかなか上手くは行っていないが、着実に前へは進んでいる。いろいろと投資もされているから身も引き締まる。おかげで分かった。残念だが、僕の動画製作に対する興味は薄い。写真と比べると見劣りしている。仕事だから取り組むが、趣味で取り組んでいたら、そろそろ撤退する頃というわけだ。

振り返れば、僕の写真歴も長くなっていた。けれども、初期の頃からスタンスは変わっていない。自分がいいと思える写真を作りたい。「僕の思う最高の1枚」を目指しているが、それは昔も今も。アプローチの方法は変わったが、良くも悪くもゴールは同じなのである。

カメラの使い方をマスターすれば、いい写真が撮れるだろう。初期の頃はそう思っていた。だが、現実は違った。ピント、露出、構図、それらがバッチリ決まっても、いい写真とは思えないことが続いた。やはり、いい被写体は必要なのであろう。その考えに行き着いた。

短期転勤を繰り返しながら、日本各地を撮った。僕の写真の第1フェーズと言っていいだろう。車中泊を絡めて、北海道から中国四国までを撮りまわった。いいと思える写真も増えた。だが、物足りなさを感じる写真も多かった。この延長線上に、僕の考えるゴールは無いようにも思えた。根本的に撮り方を変える必要があるだろう。とはいえ、気付いたことも多かった。

ひとつに、僕の考える「いい」は、ほぼほぼ「美しい」と言い換えても問題なさそうだ。そして、そのような「美しい」は、ひとつひとつの被写体に紐付いているステータスではないと感じた。閲覧者の価値観の多様性による感じ方の違いもあるが、それ以上に閲覧者の視点や視座による影響がつよいと思えた。

分かりやすく例えるなら、田舎と都会の風景だろう。田舎者は見慣れた里山には心を奪われないが、都会の摩天楼には奪われる。一方で都会者は見慣れた摩天楼には心を奪われないが、田舎の里山には奪われる。日常と非日常とが違うだけで、「美しい」の感じ方も変わるわけだ。

そして、「美しい」がそのもののステータスでないのなら、すべてのものが美しく見える可能性を持っていることになる。仮にそうならば、そのものを「美しい」と感じられる視点からながめてやればいいということだろう。

僕らは景色を意味づけして見ている。都会のビルは、都会のビルで、田舎の里山は、田舎の里山だ。そのものを見るということは、そのものの背景も意味として認識している。その意味を解釈している視点を変えてやればいいのではなかろうか。

この世界はシンプルだ。一見、生物圏の営みは複雑に見えるが、その実態は物理法則から一歩も逸脱していない。温かい飲み物が冷めるように、水が上から下へと流れるように、生物圏も一定の方向へ進んでいる。酵素はあくまでも触媒だ。反応させてるわけではない。反応スピードを変えているだけだ。熱を利用して上流へ遡るような反応にも対応しているが、その熱も太陽が不安定から安定へと進む過程で副産物的に生まれたエネルギー。たしかに、生物圏の営みだけを見れば、安定から不安定へと進む物理法則を逆行している特別な存在のようにも見えるが、宇宙規模で見れば、破綻することなく、シンプルな物理法則の上で動く現象のひとつと言えよう。

この考え方は受け入れにくい。自分たちのアイディンティティが崩れるからだ。僕らが存在する意味も冷たい。例えば多様性。価値観のそれも含む。それがあるのは、なにも人間らしく存在するためではなかろう。生物圏の存続のためのリスクヘッジなだけだ。全員が、全滅を防ぐための捨て駒。そこに個々の尊厳は無いのである。

僕らは尊い存在でなければ生きてはいけない。なぜなら、生と死の”ふるい”で、その想いの強い個体として選別されたからだ。先祖代々である。いや、生命が生殖と寿命を獲得してからずっとだ。その想いはすべての生物が共有している。強力な共同幻想だ。だからこそ、この視点は僕らから最も遠い場所にある。その視点で景色を眺めれば、すべてが「美しい」と感じられるはずであろう。

僕は農家に転職した。農作物を撮った。毎日撮れるのでトレーニングにもなった。その数はグラブショットにも拘らず、10,000枚近くにもなった。もちろん、視点は変えていた。農作物を撮ったのではなく、物理現象の結果を追った。僕の写真の第2フェーズと言っていいだろう。ずいぶんと「僕の思う最高の1枚」に近づけたのではなかろうか。他者からの評価もおもしろい。説明はしていないから、混乱する者も少なからずいた。

だが、誤算もあった。僕の撮った農作物は「美しい」と評判になった。そもそも、農作物は「おいしい」などの別の評価軸で計られるものであったが、そこに「美しい」という評価が加わってしまった。つまるところ、僕の作る農作物は「美しい」と。振り返れば、僕もその想いに浸っていた。農家の経営的な戦略とは言え、それは本末転倒であろう。それでは何のために農家になったのか分からないのである。

僕の農園は立ち行かなくなっていた。転職を余儀なくされたのである。その先が今の職場だ。広報担当ということで、撮影も仕事の一部となった。人を撮ることも多くなったと思う。そして、時間を見つけては、自分のための写真も撮りはじめた。

第2フェーズの失敗は、価値のあるものを被写体に選んでしまったから起きたと考えている。他者が閲覧したとき、「農作物」という意味を認識しやすかったのも原因のひとつだろう。「農作物」=「美しい」となる流れが最初からあったというわけだ。くわえて、経営的な戦略に使ってしまった。これらを考慮して、被写体を選んだ。

僕の写真の第3フェーズは、未だ価値の付いて無いものを被写体にした。とはいえ、廃材ではなく未利用材。そして、被写体の説明となる要素は極力排除していく。僕を含めた閲覧者に、被写体の意味を持たせないためだ。シンプルな物理法則の上で動く現象の結果を追っていく。毎日は撮れていないが、すこしづつ撮り方が分かってきた。

届けたいメッセージは無い。だが、表現方法の理解の過程で知る「シンプルな世界」は、様々な問いに対する解決への糸口になり得るかもしれない。この世界の本質を知れるからだ。とはいえ、平均以上の誤認識は免れないと思う。それでも、伝える努力は続けた方がいいのであろうか。その答えも表現方法の理解の中にある。その構造が一番おもしろいのかもしれない。なんにせよ、僕の写真はまだまだ止まらないみたいだ。

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