





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。最近はフォークリフトの免許を取得させてもらったから、その業務で忙しい。日に日に、その技術が上がっている気がする。このまま数ヶ月もすれば、ベテラン組の背中も見えるかもしれない。つまるところ、たのしく仕事をさせてもらっている。そのため、広報の仕事がすこし疎かになった。来月のイベント出店の準備も捗ってはいない。読み物の作成に至っては、完全にストップしたままなのである。
現場の仕事も忙しいが、イレギュラーな仕事も入ってきた。先日は、荷物の梱包作業を任された。大きすぎる荷物だったから、いろいろと悪戦苦闘した。結局、規定サイズのギリギリまで荷物をカット。それを梱包することになったが、上役に言われた通り進めると、不具合があり、やり直しとなった。
聞けば、僕に期待してくれていたらしい。つまるところ、言われた通りに進めてはいけなかったのだ。これは申しわけない。正直、言われた方法は違和感しかなかった。それでも、僕は言われた通りにしか進まなかった。
そこには、ちゃんと理由がある。僕もいい歳だ。自己判断のような自分を出すことを多くすれば、周りに負担をかけるだろう。めんどくさい奴にはなりたくないのだ。謙虚すぎるくらいが丁度いい。専門分野でないなら尚更。僕を上手く使ってくれたらそれでいい。マシンのように言われたことを実行する。違和感を覚えても、自分の気持ちには耳を貸さなかったというわけだ。
けれども、今後は変えていく必要があるだろう。だが、ひとつだけ懸念がある。もしかしたら、僕のことをオールマイティに“出来る人“と思われているのかもしれない。たしかに、多様なジャンルで仕事をこなしてきた。はったりをかました恩恵だろう。けれども、できないことは多い。むしろ、普通の人よりも多いと思っている。おそらく、気付かれていないのだろう。まさか、電話や簡単なマルチタスクが苦手だとは。“出来る人“と思われても仕方ないのである。
僕は、出来ることと出来ないことの差が激しい。だから、他人の言う”努力”の度合いを、絶対的にも相対的にも、計り知れないことを知っている。おそらく、何かを成し遂げるための努力の量は、人によって異なるのだ。同じ量の努力でも、上手くいく人もいれば、上手くいかない人もいる。すべてではないが、上手くいった理由が努力の賜物でもなければ、上手くいかなかった理由も努力不足ではないと思う。これはもう、生まれ持っての資質の違いであり、多様性の発現した結果なのであろう。
そう考えると、この世界は残酷なのかもしれない。例えば知能。その優劣の影響があまりにも大きいからだ。多様性の存在理由が生命圏の維持なのであれば、知能が低い者も、高い者と同列にその役割を果たしている。知能の違いがグラデーション分布していることを考えれば、このシステムが健全に働いている証拠と言ってもいいだろう。にも拘らず、知能の高い者が受ける恩恵があまりにも大きすぎるのではなかろうか。
これはもう、仕方ない。低い者と高い者、その境界にいる者、それぞれが忌み嫌い合って争う光景は、現象というなの動きのある自然風景そのものだと思う。そこで飛び交う「努力が足りない」という言葉に対して、僕はどう受け取ったらいいのであろうか。結局、僕も自然風景の中のひとつのオブジェというわけだ。
僕は、苦手なことは、他人よりも工夫することに努力して、”人並み”を目指すことにしている。その結果、荷物の梱包にも期待をしてもらったのかもしれない。けれども、僕は人の前で仕事をするのも苦手だ。マルチタスクになるからだ。頭がまっしろになる。だから準備は万全にしておく。細かい動線や段取りまですべてだ。そうすることで、人並みに近づける。それがないと、すこし暴走気味になってしまう。自分の気持ちには耳を貸さなかったことは嘘ではない。けれども、耳を傾けることが出来なかったのも事実というわけだ。
けれども、そんな自分を嫌になることはない。むしろ、好きと言ってもいいだろう。大丈夫、次からは上手く梱包できる。僕の代わりに行ってくれた人のやり方を見たからだ。そのあとで何回もシミュレーションしたから準備は万全である。きっと、人の前でお話しながらでも梱包できるであろう。その日が今から楽しみだ。