





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。故に、ある程度の仕事は自分で作る必要がある。方向性が定まるまでには、何度も提案を繰り返してきた。無難すぎるものから、夢見がちなものまで。その都度、GOサインの是非を求めていた。つまるところ、そこまでの裁量権は頂いていない。仕事を作ると言っても、最終決定は社長に委ねていたというわけだ。
ここにひとつの疑問を持っている。仮に、僕の責任で仕事の決定を含めたすべてを任されていたとしたら、それでも僕は提案を続けていただろうか。おそらく、同じことはしないように思える。やはり、雇われの身は楽だ。105%を目指しても、そこから120%に上げていくことはしないだろう。100%以上の段階で自分を褒めてしまうと思う。
そう考えれば、僕の自発性はひどく乏しいだろう。仕事は作っているものの、それは大まかな要望に応えただけだ。自発的と考えるには無理もある。どうしたものか。そんなことを考える、ひとつの出来事があった。
あれは僕が助っ人として、他部署の応援に出掛けたときだ。久しぶりの外現場で、緊張感はあるものの、新たな作業に心も躍っていた。季節は夏。今年も十勝は暑い。準備した補給用の水分も、日常生活では考えられない程の量をとなっていた。
仕事は先輩ふたりに教わった。おもしろい。完成形を見れば達成感もあった。終わってみれば、準備した水もゼロに。汗の量も半端なかった。正直、自分が臭い。服も、えらいことになった。帰りのクルマが心地よすぎる。強すぎた冷房に体は凍えるも、心は歓喜しているようで、それがなんだか心地よかった。
先輩は熟練者だった。匠と言ってもいいと思う。経験も長い。この道のエキスパートだ。器用貧乏な僕の働き方とは真逆と言っていいだろう。そんな先輩だが、新たな企画を進めていた。
僕は驚きと焦りを感じた。それは100%の自発によるものだったからだ。たしかに、僕も同じことはできる。ただし、依頼されればだ。先輩はそれがなくても動ける人だったというわけだ。その後、僕の驚きと焦りが尊敬に変わったことは言うまでもない。
思い返せば、僕も自発的と思えるような行動はとってきた。進学、就職、異動、退職、就農、そして再就職。その都度の決断は自発的と呼べるものだろう。いわゆるレールから外れた列車だ。けれども、実際は組み替えたレールの上を走っていただけなのかもしれない。
さすがにネガティブすぎるが、その影響と思われるものが悪く出ている節もある。仕事に対する熱量だ。どこか踏み込めていない自分がいる。熱量が薄いというか、ずるいのだ。
例えば、フォークリフトの免許。取得すれば作れる仕事も増えるから、『取りたい』と言えばいいものの、『取りに行け!と言われれば行きますよ』と。どこかで決断を回避している「ずるい自分」がいるわけだ。
きのこ栽培もそう。僕の前職は農家だ。その栽培方法は熟知している。そして、社長が興味を持っていることも知っている。なにより、社内でも興味関心は集まっていた。けれども、僕のスタンスは『やれ!と言われればやりますよ』。今は、それすらも口にしてはいない。ほんとにずるい奴だと思う。加えて、違う策まで考えているのだから。
たしかに、ガツガツしても、会社の利益にはならないという理由もある。それを差し引いてもずるい。思い返せば、仕事として取り組んでいる文章も、写真も、動画も、すべてそうであった。どうしたもんだろう。これはもう、僕の永遠の課題と言ってもいいのである。