





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。けれども、僕には実験動物技術者だった過去がある。故に、分かりやすい二項対立の実際を目にしてきた。賛成派と反対派。とはいえ、二枚板ではなかった。賛成派の中でも意見は分かれる。反対派も然りだ。その中で、全員が自分の正当性を主張する。当然のように議論は平行線。「命は尊い」。その前提観念を共有しているから、相手の矛盾を突いたりもする。もちろん、相手に突かれもする。そして、「真実はひとつではない」という着地点を設けてみたりするわけだ。
僕は、この解に違和感を覚える。とはいえ、表したいことは理解しているつもりだ。人の数だけ解釈があり、人の数だけ真実がある。その人の解釈は否定されるものではない。そう解釈したという事実が、確実に存在しているからだ。それを含めての真実は、やはりひとつだけではないのであろう。
これは問いに対するアプローチの仕方だと思う。どう向き合い、どう解いていくか。肌感覚だが、様々な因果関係を知ろうとすると、真実は複数であると思えるのではなかろうか。一方で、因果関係が成立している構造を知ろうとすると、真実はひとつと思えるようになる。これも、どちらが正解という話ではない。その意味では、「真実はひとつではない」という解が正しいのであろう。
それを踏まえた上で言わせてもらえれば、僕の考えは後者よりだ。やはり、真実はひとつだと思っている。故に、この問いを「価値観の多様性」で片づけてしまうことも、すこし乱暴と思っている。なぜなら、「価値観の多様性」の裏には、人の持つ普遍的な価値観が見え隠れしているからだ。
誤解を恐れずに言えば、「命は尊い」も真実ではなく観念であろう。普遍的な価値観ともいえる。そう考えることに対して反発的な意識が生まれがちだが、それがすべてを物語っているのではなかろうか。
ダーウィンの進化論を是とするならば、人の進化は自然淘汰によるものとされている。環境に適応した個体が死を免れ生き残り、それが繰り返されることにより、より生き残りやすい個体だけが選抜されていくというものだ。だが、もうひとつの選抜も同時に行われている。生への執着心だ。それが無ければ、高い適応力を持っていたとしても、生き残るのは難しいだろう。そもそも、選抜は多様性を減少させる。死というふるいで選抜をかければ、生への執着心も普遍的な価値観となりえるだろう。「命は尊い」が、真実ではなく観念と思う由縁である。
生への執着心のおかげで、僕らは死を忌み嫌う存在にしてきた。その影響で、考え方も自己中心的になったと思う。進化論もそうだ。今の僕らを創ったメカニズムと捉えている節がある。実際は、もっと単純な存在理由であろう。生物の絶滅を回避するために設けた、多種多様な駒の生産装置と捉える方が自然と思える。適応した種を選抜するメカニズムではなく、誰かが生き残るためのもの。そう考えた方が腑に落ちるのは、僕だけであろうか。ダーウィンの進化論的な解釈には、人としての自己中心的な振る舞いが見えて、違和感が残るのである。
もしも、そうならば、賛成派と反対派に分かれて争い合うことも、すべては生物の存続のためのものであろう。種の多様性と同じく、価値観の多様性も、危機に対してのリスクヘッジになるからだ。新しい薬が世に出ると、顕著に価値観の多様性が発現するが、その視点で眺めれば、ひどく合理的に見えてしまう。薬が生物にとっての希望でも、破滅の扉を開く鍵であっても、賛成派と反対派に分かれて、混ざらないように争い続ければ、結果的に生物の絶滅は無い。どちらかの派が生き残るからだ。最初から生物の全数が助からないことなど承知の上ということだ。
それは、価値観だけではないと思う。性格やバイアス、欲望、煩悩の存在理由も、同じ役割の一端を担っているのではなかろうか。そう考えると、僕の人としてのアイデンティティは崩れそうになる。けれども、矛盾なく理にかなっている理屈には、美しさすら覚える。『人は人が絶望するくらいシンプルな存在』。これが真実であり、唯一の理と考えたいのだ。
すると、不思議と他人の価値観にも寛容になれた。その人の人格と価値観の結びつきは弱いと思えたからだ。自身の欲望についてもそう。否定はできず、とはいえ肯定もせず、甘やかさず、寄り添い、あたたかく見守りながら大切にする風。言語化が難しく、上手く言い表せないが、煩悩は人にとって必要で大切なものであり、蔑ろにすることは、幸せに生きていく上で得策ではないと。自身のものはもちろん、他人のものも大切にする必要があると思えた。
人はシンプルだ。比喩ではなく、転がる石と大差はない。すこし落ち方が複雑なだけだ。単純な物理法則に従った経過を刻み続けている。そこに目的はおろか意思もない。そもそも、意思とはなんだ。自我のことだろうか。それもAIの発展とともに答え合わせが進むであろう。僕はそれが楽しみだ。機械のような無機質なロジックで人の思考はまわっていると思っている。
社会のようなマクロな視点で垣間見れる二項対立の図式も、ミクロなひとりの人の中でも存在している。必ず、思考は迷いと葛藤を経て出力されるだろう。一見すると、これも人の不完全性からにじみ出たものに見えるが、その裏には無機質なロジックがあると思わされる。
この戦略は、免疫システムでも取り入れられているほどで、生物の中ではポピュラーなものだ。自己と非自己を見分けるT細胞は、胸腺で教育を受けて、はじめて一人前となる。合格となる基準は、なんとなく自己で、なんとなく非自己と、絶妙な「あいまいさ」で対象を認識できること。つまり、正解と思う認識の裏には、必ず不正解と思える認識もすくなからず存在しているのだ。これが結果的に、的確でありつつ、適度な柔軟性も保持したものになるというわけだ。
これは人の思考だけではない。社会のルールや倫理もそうであろう。賛成と反対の意見があり、そのバランスで、その瞬間の解が形成されている。視点を変えれば、生物が継続するための社会のために、僕らは誰かと共感したり、争ったり、迷ったり、葛藤したりしている。そう、人には自由が無い。そうすることを強制的に担わされていると思わされるのだ。
それでも、この世界は生きるに値すると思っている。ポジティブな感情を思わせてくれることもあるが、それ以上に、そんな世界が美しいからだ。仮に、人が持つ普遍的な価値観である生への執着が無かったとしても、僕はそう思うだろう。それは、この話で語ってきたことのように、この世界をメタ認知していたからだ。すくなからず、救われたり、幸せを感じられたが、もしかしたら、それも人の性質からくるものなのかもしれない。けれども、それでいい。そんな自分を含めてのメタ認知だからだ。もしかしたら、これが悟るということなのかもしれない。
煩悩は大切だ。そのことを深く理解するためには、一度捨てなければならないだろう。失ってはじめて気づくのだ。もしかしたら、聖者の修業の目的はこれなのかもしれない。
と思いつつも、悟ることはそんなに簡単なことではないだろう。あえて書かなかったが、僕の考えにも穴はいくつもある。それでも、この世界の真実に、すこしは近づけたのかもしれない。すこしの幸せを感じられたからだ。
もし、本当に悟ることが出来たら、この世界はどんな景色を見せてくれるのだろうか。きっと、一言では表せない感動が待っているだろう。写真に収めたいものである。
「悟ってみたい」。そのために苦しい修行をしようとは思わないが、趣味的に考えを巡らせるのも悪くはない。その過程も楽しいからだ。なにより、ささやかで唯一の抵抗にもなる。俗にまみれた欲望だが、人にとっても健全だとも思う。