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#223 何のために撮るのか

十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。つまるところ、サラリーマンという肩書を有している。すこし前までは農家だったから、その差に戸惑いを感じたりもするわけだ。

大きな違いは、業務とプライベートの間にある境界線との向き合い方であろう。農家だったころは、その境界線が曖昧であった。休日の過ごし方が顕著だ。今になって思えば、緩くではあるが、ずっと仕事をしていたと思う。完全なオフの時でも、頭は仕事から離れず、常に何かを抱えていた。

そのためか、未だに休日でも仕事のことを考えてしまう。けれども、僕はサラリーマンとなった。管理職でなければ、これといった役職もない。言ってみれば自身の時間を売っている。サービスをしても直近の見返りはない。いろいろと考慮をすれば、農家時代よりも強く境界線を感じていた方が健全であろう。

そんな理屈を抜きにしても、境界線はあった方がいい。居心地がいいからだ。けれども、居場所が良すぎる問題もある。それに取り憑かれることは不幸と思えるからだ。躍起になってしまう。頭を使うこともyesかnoの2択になってしまうだろう。そうなれば、他人との争いがはじまるかもしれない。種となる「私は正しい」は、境界線を作り維持する行為のひとつだからだ。

そう考えれば、僕の振舞いは間違えていたのかもしれない。いや、間違えるもなにも、これらはコントロール不能だと思う。客観的に眺めたところで、この流れに抗うことは不可能であろう。おそらく、人の自然な営みの一部だからだ。そもそも、そこにはパラドックスも生まれる。「境界線を作らない」という境界線を描いてしまうからだ。

つまるところ、よく考えて、悩みぬいて、自身を肯定しつつも否定しながら事を進めるしかないのであろう。僕は、休日は仕事から離れることにしたが、その理由は曖昧にしておいた。なんとなくだ。理屈を並べることも出来るが、それは自身の正義を守り固めるだけの行為であろう。否定はせずに肯定だけをしている証拠だ。それはきっと、自身の首を絞めることになる。自由を保つためには自身を否定することも必要なのだ。

根本的に、そんなことを考えてしまうのは、プライベートが充実していないからであろう。振り返れば、ここ数ヶ月は写真から離れてしまっている。毎日撮っていた頃が懐かしく思えるほどだ。それくらいに今の仕事が楽しいと思えている。けれども、それはあまり歓迎したくない。充実した仕事に負けないくらいのプライベートで在りたいからだ。

故に、僕は毎日撮ることを再びはじめようと思う。仕事場の写真をだ。仕事でも写真が必要になって来たから都合がいい。毎日撮り続けることで結果が良くなることは知っている。そして、この際だから、仕事とかプライベートとか抜きで取り組もうと思う。つまり仕事で使える写真に限らず撮るということだ。けれども、決して仕事時間中に遊ぶと宣言するわけではない。遠回りだが、確実に会社の利益となるだろう。いわば、撮影に必要な練習といったわけだ。故に、撮った写真は公には出さない。日の目を見るのは仕事で使う数枚だけになるだろう。残りは仕事場のPCに眠らせておく。それでいい。それがいい。たまに見返すことになると思うが、それが今から楽しみなのである。

そんなことを考えていたら、ますます仕事が好きになりそうだ。休日は撮影を休むことになるが、それはそれで仕方ない。当初は家の庭やガレージを毎日撮るつもりであったが、仕事場の魅力には到底勝てない。無理にそこを撮る必要もないであろう。撮りたいときに撮るくらいが丁度いいと思う。

一体、僕は何のために撮ろうとしているのか。その答えは昔から変わらない。「僕が最高と思える一枚」を撮るためだ。すこし忘れていたが、あたらしい仕事場がそれを思い出させてくれた節もある。農家から離れて、写真からも離れてしまったが、また同じ位置に戻ってこれた。僕の写真はまだまだ終わらないようだ。

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