





十勝の田舎町で暮らしている。僕はとある企業の広報担当だ。勤め先は自宅から遠い。距離にして東京駅から江の島くらいはある。とはいえ、ここは十勝。信号は少ない。車も少ない。渋滞は皆無。おまけに直線が多い。通勤時間も1時間ちょっとだ。慣れてしまえば苦にもならない。朝と夕方のルーチンワークというわけだ。
だが、通勤時間が長いと遅刻のリスクは高い。故に早めの出勤を心掛けている。勤務地には同僚もいないので、他人に気遣う必要もない。勤務時間外の出社もある程度は可能だ。家を出る時間も早くなるが、その問題もクリアしている。僕は元農家だ。サラリーマンとしては早い起床時間かもしれないが、僕にとっては日常の範囲。つまるところ、無理なく暮らせているということだ。
なんなら、朝は庭の畑をいじる時間もある。とはいえ、広くやっては大変。故にこじんまりとした畑をいじっている。100cm×50cm。水やりや草抜きも数分で終わるというわけだ。
植えたのはバジルの苗を4株。時期は早かったと思う。十勝は5月の中旬ごろに鳥のカッコウは鳴く。種まきの合図だ。もう霜は下りないだろう。けれども、僕が苗を植えたのはゴールデンウィーク。適した時期ではなかった。おまけに、今年の十勝は雨が少なかった。さらに土作りも失敗したのかもしれない。肥料を撒きすぎた。故に苗の成長はずっと心配の連続。枯れるギリギリのところで成長していたと思う。そして、やっと葉が増えはじめたと思ったら、こんどは花が咲いてしまった。
はじめてみた。白く小さな花だ。庭には別の大きな花が咲き乱れている。比べるまでもなくバジルのそれは地味。それでも心は和む。そのままにしておきたかったが、バジルは葉を食べる植物だ。花を愛でる植物ではない。すくなくとも僕の中ではそうであった。故に摘まむことにした。
バジルの開花は1回では収まらなかった。なん度も、なん度も、咲く。その度に摘まんだ。おそらく、そのままにして置いたら、バジルの苗の成長も終るであろう。種を作り、後世に繋ぐ術を生んだのだから。わざわざ、人に食べられるためだけに葉を増殖する必要もないというわけだ。
それにしても匂いはいい。ついつい、花を摘まんだ指先の香りを嗅いでしまう。スイートバジル。名前の通り、甘い香りがするのだ。きっと、葉もいい香りがするのであろう。ハーブの栽培としては順調ということだ。
食べてみたい。でも、収穫するにはまだまだ小さい。もっと成長しないと、葉を収穫してしまえば、最悪枯れてしまう恐れもある。とはいえ、いつ枯れてしまってもおかしくない。ことしも十勝は異常気象だ。日本の南の海域には「モンスーン・ジャイア」も形成されてるらしい。
インド洋東部から流れてくる季節風がモンスーン。一方で、日本の東沖には太平洋高気圧がある。それらに挟まれる形で相対的な低圧部が生まれる。それがモンスーン・ジャイアだ。台風の発生も多くなるだろう。軌道も変わったものになるかもしれない。
過去に起きたのは2016年。その年、十勝では記録的な豪雨に襲われた。僕の住む町でも川が決壊し、道路は流され、鉄道も寸断された。それと同じことが今年は起こるかもしれない。そうなれば、きっと僕のバジルも壊滅的な被害を受けるだろう。
僕はバジルを食べることにした。今しか食べられない恐れもあるからだ。とはいえ、味見程度。成長に影響が出ないくらいの少量を収穫したというわけだ。
フライパンでオリーブオイルを温め、弱火でにんにくを炒めていく。そこにぶつ切りのイカとホタテを加えて火を入れていく。ホールトマト、白ワイン、塩、胡椒、そしてバジルの葉を加えて煮詰めていく。旨味は顆粒の昆布出汁で賄った。生クリームも追加しておく。そこに茹でたパスタを合せれば、ペスカトーレの完成だ。パルミジャーノレッジャーノをかけておけば、お店の味に近づける。
おいしい。バジルもいい仕事をしている。作ってよかった。食べてよかった。ますます、バジルの成長が楽しみになった。どうか、災害は来ないでほしい。秋になったら、生バジルのマルゲリータを作りたいからだ。