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#209 貧乏神かもしれない

古き佳き時代のもの。僕はそれが好きだ。けれども、懐古主義ではないと思っている。今の時代のものよりも優れている面に惹かれているからだ。それは背後に流れるストーリーではない。不便さや煩わしさでもない。純粋にパフォーマンスがいいからである。

僕の中でのことだが、車でもATよりもMTの方が圧倒的におもしろい。フィルム写真もそう。イベントで写真を展示すれば人は集まり、フィルム写真ということを伝えれば更に驚かれる。原木きのこもそうであった。栽培方法を伝えなくても、美味しさだけで贔屓にしてくれる。

古き佳き時代のものは、現代における無差別での戦いでも勝つことが出来る。そこに「新しい」や「古い」はない。「ハンデ」や「アドバンテージ」も然り。矛盾しているが、そこで戦える古き佳き時代のものに、僕は尊敬と誇りを抱いているというわけだ。

つまるところ、ここら辺の話は作り手側で議論されていることで、受け手にとっては大した話ではないのであろう。車も運転手はATやMTに拘るかもしれないが、乗客は乗り心地が良くて目的地にちゃんと着けば、あとのことはどうでもいい。

写真もそうだ。撮る者はデジタルとフィルムの違いに敏感になるが、観る者にとってはそれ以上に期待するものもあるだろう。きのこも、不味い原木栽培よりかは、美味い菌床栽培の方が望まれるというわけだ。

無差別での戦いとはそういうことである。だからこそ負けてしまうことも多いのだろう。コスパやタイパを持ち込まれると分が悪い。それに特化して開発されたものが多いからだ。それを望む者も多い。パフォーマンスはそこそこあればいいと願う者が大多数なのであろう。これは悪いことではない。そもそも、僕も他分野では多数派だ。市場とはそういうもの。おかげで、古い時代のものはハイパフォーマンスなものだけが残った。「古き佳き時代のもの」とは、そういうものの意に今後はなっていくと思う。

そして僕は今、また新たな「古き佳き時代のもの」を前にしている。強く惹かれていると思う。その出会いに感謝しながらも、一抹の不安も覚えてしまう。僕が関わるものは次々に失われていくからだ。MTやフィルム、原木きのこがそうであったように、この新たな「古き佳き時代のもの」も、時代の流れから弾かれてしまうかもしれない。

自意識過剰だ。僕にそんな影響力は無い。たまたま消えゆくものに関わっただけだ。けれども、そんな死神というか貧乏神な自分もイメージしてしまう。関わらない方がいいのかもしれない。新たに出会ったものの延命に関われるからこそ、他の誰かに任せた方がいいと思ってしまう。

ただ、それに関わることは楽しそうだ。いたずら心もざわつく。ある程度のやり方は分かっている。内輪で盛り上がりすぎてはダメだ。今はまだ関心の無い人達をターゲットに接触機会を増やしていけばいい。時間は掛かる。手を変え品を変えながら淡々と続けることが重要となるだろう。

後悔は無いが心残りはあった。それに加えて、「悔しさ」は無いが「申し訳なさ」はあったと思う。どういうわけか、それを僅かにだが挽回できる機会に巡り合ってしまった。これに熱を上げていいのか。どうしたもんだろう。このまま時に身を任せて流されてしまうのもいいのかもしれない。

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