





教習所のカリキュラムは『AT限定』が標準になったらしい。MT限定解除はオプション扱いということだろう。いろいろと議論が巻き起こりそうな話だが、またひとつオールドファッションなものが、人の中心から更に離れていくというわけだ。
ここまで来ればATやMTの優位性を語る必要もないだろう。市場の数字がすべてを物語っている。仕事とは『社会課題の解決』だ。「もっと車を手軽に使いたい」。その要望に誰かが応えただけなのである。
もちろん、それによって生まれた弊害もある。だが、それを理由に問題の解決を止めてはいけない。次世代のためにも弊害を克服する義務がある。先人が創り上げたものを僕らが利用するように、僕らが創り上げたものを後人は利用するだろう。文明の進歩とはそういうものだと思っている。
ひとつ難点があるとすれば、それは娯楽の減退であろう。仮に、MTを楽しめる素質を持つ人が全体の1割だとしたら、その者たちがMTという娯楽に出会う機会は、あまりにも少なすぎる。ステルス的な不幸が訪れるわけだ。好きなことを探す難民も増えるだろう。
カメラもそう。アナログからデジタルへ移り変わり、カメラという専用機からスマホの中へと移り進んだ。オーバースペックな性能は必要ない。タイパ・コスパに優れていればいい。多くの人がそれを選んだ。結果、1割の人の娯楽を奪ったかもしれない。
それでも、僕は市場の数字を尊重したい。経済合理性の名の下の資本主義は、民主主義そのものだからだ。多数決は絶対正義ではないが、よくできた自律システムだと思う。それはもう自然現象のようだ。流れに逆らうことは出来ないのである。
結局のところ、僕が生業として栽培していた『原木椎茸』も同じであったのだろう。大多数が求めていたのは『椎茸』であって『原木椎茸』ではなかった。安価で安定して供給される『菌床椎茸』を望んでいたのである。
『菌床栽培』は、当時かなりのイノベーションだったと推測する。栽培効率、栽培時間、コストカット。どれもが革新的であった。中でもリスクマネジメントの精度が大幅に上がったと思われる。室内で栽培を完結できるので、それはもう工業製品に近い。いちはやく企業が栽培に進出してきたことにも頷ける。見事な『社会課題の解決』となったわけだ。
ここには日本の抱える農業問題の解決策も示されていると思う。農業が難しいとされる原因は、リスクマネジメントの精度を上げられないところだ。栽培効率を上げても限界はあるだろう。大規模化、もしくは保険を掛けるしかない。根本的な解決を図るなら、農業の工業化を進めるのが得策。そのための研究費を掛けた方がいい。さすれば将来的に企業の参入も進むであろう。
これには問題点がある。農家がいらなくなるのだ。そう、農業を守ることと、農家を守ることは、おそらく両立できないであろう。だからか、先日の『令和の百姓一揆』を見ていても、複雑な気持ちでいっぱいになった。
やらないよりかはやった方がいい。けれども、他に出来ることがあれば、そっちをやった方がいい。僕は素直に応援できなかった。理由は他にもある。参加者の主義主張がばらばらであった。これは仕方ない。それを踏まえてのデモ行進だったと思う。故に賛同できる意見もあれば、賛同できないものもあった。
そもそも農家はいい人ばかりではない。それは僕が農家として経験してきたことだ。平気で嘘をつく人もいるし、ルールの穴を突くことが正義と思っている人もいた。楽に稼ぎたいのは農家も同じ。所得補償をすればどうなるか想像もつきやすいというわけだ。
「農家を公務員に」。これには一部賛同している。米農家に限ってだが、ライフラインを維持しているわけだから、資本主義の枠組みで活動しては無理が出るだろう。非営利な活動の方が何かと都合がいいはずだ。それならば、枠組みも必要となるだろ。個性は必要ない。農家単位で行うことはデメリットしかないと思える。ひとつの独立行政法人が農家をサラリーで雇い、日本の農業を支えることが現実的であろう。
日本の農業を守るために、現存の農家は犠牲になれるのか。土地を手放し、経営から身を引き、指示に従い田畑を耕す。これは難しいと思う。この現実を棚上げしてデモに参加することは出来ない。想いを行動に移した参加者には敬意を払いたいが、彼ら彼女らの生末を考えると応援はできないのである。
僕の理想は、フルオートの工業化された農業を民間企業が営むこと。そして、美味さを追求した農業は、伝統芸能のように手厚く保護されることを望む。
さすれば、今ある農業はオールドファッション化するだろう。おそらく、受け入れられない人も多くいると思う。けれども、大丈夫だ。市場はそれを求めるようになる。時間が経てばそれが普通となるだろう。今の農業がMTやフィルムカメラのような存在になるだけだ。日本から農業が消えることはない。そう願うのである。