





僕は音痴だ。故に、大阪の南港で起きた『ストリートピアノ問題』には心がざわつく。やはり苦音は社会の害だと。とはいえ、勇気をもって演奏した初級者には敬意を払いたい。もちろん、ストリートピアノを設置した管理者にもだ。
なにが問題であったのだろう。苦音を奏でたことだろうか。それとも、そこにクレームを入れたことだろうか。クレーム対応として、演奏者にルールを課したことが騒動の発端だ。結果的に撤去されたストリートピアノ。問題は解決されたように見える。けれども、問題の本質は解決されていない。必ず同じような問題が起こり得るだろう。
歌手のGACKTさんは綴った。「でもこれは、弾く側と聴く側、どちらにもリスペクトがあれば乗り越えられる問題だと思う」。僕もそう思った。実際、お互いが相手に対してリスペクトを持っていたかどうかは分からない。もしかしたら、演奏者も自由を履き違えて横暴に振る舞っていた可能性もある。敬意を示さない相手に敬意を払うことは難しい。聴衆者もクレームを入れたくなるだろう。
設置者も、演奏者や聴衆者に対しての敬意が薄かったのかもしれない。相手の敬意を期待してしまう。それが当然のように。そのような一方通行の敬意は崩れやすい。逃げ場のないフードコートにストリートピアノ。聴衆者に対しての敬意が薄かったのではと思ってしまう。
とはいえ、相手と敬意を払い合うことは難しい。性善説が成り立たないことと似ている。相手から送られてくる敬意を当然と思ってしまえば、相手へ送る敬意も忘れてしまうだろう。そうなれば、相手から送られてくる敬意も薄くなる。敬意を示さない相手に敬意を送り続けることは難しいからだ。すると、自分は相手のことを『当然のことを怠っている者』と見てしまう。信頼関係も崩壊するわけだ。
これはサラリーマン時代にもあった話だ。上手くいっている組織こそ、僕ら委託業者を平等以上に扱ってくれていた。それに甘んじて天狗になっている上司もいたが、決まって相手とトラブルを起こしていた。平等に扱ってくれても、謙虚に相手を上に見る方が上手くいく。敬意を払い合うとはそういうことだろう。なんだか日本的でめんどくさい関係性かもしれないが、僕はこっちの方が居心地がいい。
敬意を払い合う。それは相手からの敬意を当然と思わないことだ。そうすることで解決できる社会問題は多いと思う。価値観の違いから生まれている論争も、解決したい課題は相手と共有していることも多い。見ているゴールは同じだ。解決のための手段と方法が違うだけである。ならば相手に敬意を払うことは出来るだろう。さすれば幾多の問題も解決できるのではなかろうか。北風と太陽の話のように。そんな世界を僕は望んでいる。