





僕は写真が好きだ。いい写真を撮りたい。その想いを胸に撮り続けている。はじめてから20年以上も経っているが、今も変わらずだ。とはいえ、アプローチの仕方は変わってきた。現在は撮影者の視点を変えることで、いい写真に近づこうとしている。
例えば、都会の高層ビルは美しい。だが、そこに住み慣れた者はそう感じないだろう。田舎の原風景も然りだ。つまりは見る者の環境や視点、視座等で感じる美しさも変わるというわけだ。加えて、すべての物が美しく思える可能性がある。故に撮影者の視点を変えることは、いい写真に近づくための方法のひとつと考えている。
とはいえ、田舎者がシティーボーイの視点に変えるくらいではダメだ。僕は世界の見方を変えてみることにした。科学的にだ。例えば多様性。大切にしたり、受け入れるべき存在と考えることが一般的だろう。けれども、視点を変えれば、生命圏の存続のためのリスクヘッジと思える。
キリンの首が長い理由は、低い木の葉を食べ尽くしたとき、高い木の葉を食べられる個体が生き残ったから。ダーウィンの進化論ではそう語られている。僕もそう思っている。けれども、視点を変えれば、低い木の葉を食べ尽くしても、キリンは絶滅しなかったとも言える。首の長さが異なるキリンがいたから絶滅を免れた。多様性が存続のためのリスクヘッジとして機能していたというわけだ。
この考え方の方が辻褄が合うことも多い。生命体が増殖すること、多様な形態をとること、それを保持するために混ざり難くなっていること。すべてはリスクヘッジのためだろう。人と人が争い続ける理由もここに集約される。
つまり、人は生命圏の維持のためにリスクヘッジされた駒のひとつと考えられるわけだ。人は人が絶望するほどシンプルなのである。
そんな生命も特殊な存在ではない。しっかりと物理法則の中で動いている。例外なくだ。安定した混沌へと進む流れの中で、生命のような不安定である秩序を形成する動きは特殊とする声もあるが、僕はそれを否定する。その流れはドリフトするからだ。ミクロな視点で見れば、逆流に見える箇所もあるだろう。けれども、マクロな視点で眺めれば、しっかりと上から下へと流れている。
そう、特別なものなんて何もない。人も、生物も、人工物も、自然物も、そこに境界線は見当たらない。その視点から見える景色は新鮮だ。写真に収めても変わらない美しさがあるというわけだ。
僕は毎日きのこを撮っている。そこに美しさがあるからだ。けれども、それはきのこの美しさではない。すべての"もの"に宿っている美しさを僕は見ている。故にきのこでなくていい。けれどもきのこでもいい。きのこを撮り続けている理由はそれだけだ。
僕は幸せ者だろう。遠くへ行かなくとも暮らしの中に求める被写体があるのだから。しかも、すこしづつ変化もしてくれている。だが、ひとつだけ不幸と思うことがある。それは、この理屈を誰も理解してくれてないことだろう。
だが、それでいい。この僕もリスクヘッジの駒のひとつ。無駄に首の長さが違うだけだ。それを不幸と思わされているだけで、実は幸福でも不幸でもないのである。それよりも、そのことに気付けることの方が、唯一の自由であり幸せなことなのかもしれない。ならば伝えたり残す努力も不要であろう。僕はそう思っている。