





パラドックスはおもしろい。理屈は破綻しているが、パラドックスを形成しているロジックには美しさも感じる。『私は嘘つきです』。シンプルでいい。このワクワク感はなんだろう。本当に好きなんだと思う。
タイムパラドックスもおもしろい。この矛盾を回避するために、様々なロジックが創られ語られてきた。フィクションの中でもだ。
『過去を変えてもルートが変わるだけで未来は変わらない』。『過去を変えれば現在は変わり未来も変わる』。『過去を変えるとパラレルワールドが生まれるだけでその者の現在は変わらない』。
上記はタイムパラドックスを扱った有名な物語3つの考え方だ。物語の設定としてはおもしろいが、パラドックス自体は消せていない。だが、多くの考え方を並べてみると、その解決の糸口も見えてくる。
共通しているのは『過去』と『現在』、『未来』を行き来していることだ。時間の流れを一次元のライン上で考えている。過去から続く現在があって、その延長線上にあるのが未来。当たり前のようにそう思っていたが、もしかしたら、ここが間違っているのかもしれない。
つまるところ、時間を概念的に考えるときは、抽象化して一次元に当てはめると都合がいいが、実際はそうではないと思う。おそらく流れるものではないと。ただ、そこら辺を考えると、時間や空間が存在していることに異常性を感じてしまうから、なかなか先に進めない。
とはいえ、一次元的に考える時間には美しさを感じないから、やはり認識が間違っていると思いたい。きっと、パラドックスの生まれない合理的で美しいと思えるロジックが時間にもあると。そう考えると、非合理に思えるということは、そのものに対しての認識がずれている可能性があるのかもしれない。
合理性を感じる視点から見える景色は美しい。『人は非合理な生き物』と言われているが、僕はそれを否定する。誰かの振舞いが非合理に見えるのは、自身の視点がそう映しているからだ。視点を変えれば人が非合理には動けないことにも気付く。非合理と思える人が美しく見えるときもあるが、それ以上にその視点から見た人の姿は美しい。いや、人だけではない。他生物も、非生物も、同じ理由で美しく思える。
そもそも、合理性とは何だろう。目指すべきものであり、問いに対する正解なのかも知れない。けれども、世界には合理性がないものは存在しないとも感じている。それはもう、合理性ではなく普遍性。
そう考えれば、『非合理を嫌う』という言葉は、ある種の合理性を否定することになり、『非合理を好む』という意味も含まれるから、ロジックとしては破綻していることになる。つまりパラドックスが生まれるというわけだ。
合理性パラドックス。これもなかなかいい。紐解けば、人と人とのコミュニケーションの中にも、自然な風景を感じられる。仕方ないと思えることも増える。僕の想いも合理的というわけだ。