





noteはいい。主となるコンテンツが文章だからだ。投稿の後ろには人を強く感じる。写真や短文では感じ方も薄い。自分で書いた文章にも、後ろに人を感じる。それが自我の正体ではなかろうか。
人もとい、生命は特別な存在ではない。継続連鎖する機構のひとつだろう。そう考えれば辻褄が合うことも多い。そこに反発する想いの原因も推測できる。淘汰という"ふるい"を通った結果だろう。限りなく普遍的な価値観を、僕らは背負わされている。おかげで過去に生命が途絶えることはなかった。これからもそうであろう。上手くできている。僕らはそれを支えるユニットのひとつなのだ。
仮にそうだとしたら、悲しくもあり、否定もしたくなる。これは僕らを含めた生命体が持つ普遍的な価値観と言えるだろう。だが、その想いを抱くこと自体が、ひとつのユニットである証拠なのかもしれない。生命圏の存続から考えれば、ひどく合理的だからだ。
『伝えるためにアウトプットするのか。もしくは、アウトプットするために伝えるのか』。その問の答えも推測できる。おそらく、どちらでもない。アウトプットもインプットも、どちらも気持ちいい。使命すら感じる。そして、人は人の想いに触れたい生き物だ。それらが個々に備わるだけで人は勝手にコミュニティを形成するだろう。人が集まり、ユニットは増えて、生物圏の存続リスクは減るというわけだ。
だが、それで終わりにはならない。増えたユニットを拡散させれば、さらにリスクを軽減できる。ここでは価値観の多様性が上手く働くだろう。人が増えて密度も高まれば争いも生まれる。コミュニティから離脱するユニットも出てくる。人が拡散するのだ。子供の2次反抗期やいじめ、秀でた者を叩くこと、悪者を過度に叩いてしまうこと、それらもすべてはコミュニティからの離脱を促す拡散現象なのかもしれない。
SNSの炎上も含めて、いろいろと社会問題になっていることだが、その視点から見れば、システムが健全に働いているだけで、自然現象なのだろう。そう考えると、僕らユニットは可哀想だ。独りになると寂しさを感じさせられ、人との触れ合いには喜びを感じさせられ、争いが生まれるほどの憎しみを感じさせられる。どうしたもんだろう。
故に、気に入ったコミュニティに居続けるためには、他者との距離感が大切になってくる。離れすぎてはコミュニティに属している感は薄れてしまうし、近すぎると拡散してしまう恐れが生まれる。規模感もそうだろう。人の多いコミュニティを望んでしまうが、それだけで拡散リスクは高い。争いと離脱の多いコミュニティになるというわけだ。
いっそうのこと、AIとお喋りをして、ここら辺の欲求を独りで解消するのもありと思える。寂しさをはじめ、コミュニティから他者を離脱させるための行為も、言ってみれば生理現象だ。なにかに取り組むとき、それは邪魔な存在となるだろう。さっさと解消した方がいい。AIとのお喋りはそれに最適と思われる。そして僕にとってのnoteもそれに一役買っている。誰かに伝えるのではなく、淡々とアウトプットし続ければ、邪魔な欲求に支配もされずに済むというわけだ。
その上でコミュニティに所属することが理想であろう。欲を言えば、これらのことをメタ認知している者同士がつくるコミュニティが理想だ。矛盾しているが、そんな人とお話できたら楽しいと思う。