





あの頃、自炊をしていたからか「えらいね」とよく言われた。僕がそれはじめたのは20代の頃だ。まわりから見れば、そう映っていたのかもしれない。とはいえ、僕は『えらいこと』をしている自覚はなかった。楽しいから自炊をしていた"だけ"なのである。
本当に楽しかった。その当時にSNSはない。料理を作っても報告はしなかった。友人はもちろん、親にも言わない。仕事場ですこし喋ったくらい。おかげで気兼ね無く失敗を積み重ねることができた。それはもう酷かった。けれども辞めようと思ったことはない。意図的に失敗したこともあったくらいだからだ。失敗を知りたかったのである。料理を作るチャンスは毎日。独り暮らしの僕が失敗しても誰にも文句は言われない。やりたい放題の実験。それが楽しかったのである。
結果的に料理を作れるようになった。僕は中級者だと思う。初心者や初級者ではない。かといって上級者でもないだろう。そこそこの知識と、我流の技術。なにより応用力が中途半端。そこらへんが中級者と思う由縁だ。
そんな僕でも料理に対して大切にしていることはある。それが初心者だった僕を中級者へと押し上げてくれた。『料理の上達法』と言ってもいいだろう。それは道具の使い方や、覚えたレシピの数ではない。あまり上級者が語らないものだと思う。
ひとつに『考えること』がある。料理とは創作だ。指示に従うことではない。レシピを辿るだけでは楽しめないのである。だがそれはアレンジを入れることではない。レシピの意味を理解して実践する。いわば確認作業だ。故に失敗の確認もしたくもなる。前述した『意図的な失敗』を行う理由もこれだ。レシピを暗記しても楽しくない。理解するために考える。その過程が楽しく、今に思えば料理の上達にも繋がっていたのだろう。
つまりは、キッチン以外でも料理に向き合えるわけだ。僕の場合、理解を深めるために必要なものは時間だった。仕事中も考えていたと思う。料理で生まれた疑問を自分なりに解いていく。その積み重ねが『考えること』というわけだ。
とはいえ、考えることには限界がある。やはり『知ること』も重要だ。それがふたつ目に大切にしていることでもある。僕が初期の頃、スーパーで売っている食材を端から調理していった理由もこれだ。切り方や調理方法、味付けなど、まずは知ることからはじめたのである。
外食も楽しくなった。多く知れるからだ。身近なものはもちろん、良いものも食べたと思う。当たり前だが、良いものを知らなければ、良いものは作れない。そのためにも、積極的に『知ること』を進めていたと思う。
そして、料理の上達のために大切にしていた最後のひとつは『固定観念を認識すること』だ。固定観念は必ずしも悪ではない。故に捨てないことにしている。淡々と理解して把握しておくくらいが丁度いい。そもそも、「固定観念はぶっ壊すもの」という考え自体が固定観念だと思う。
とはいえ、ときに自身の固定観念は料理の上達を邪魔する。例えば千切りキャベツだ。ねぎの小口切りもそう。ついついスピードを求めてしまう。タンタンタンと、心地良いリズムを奏でることに注視もしていた。おかげで危ない目にもあった。出来も良くない。太切りキャベツ。ゆっくりやればよかったのだ。さすれば千切りキャベツ。とはいえ、やはりスピードは求めたい。心地よいリズムを奏でたい。そのためにも最初はゆっくり。固定観念は捨てずに上手く付き合っていくとは、そういうことだと思っている。
・考えること
・知ること
・固定観念を認識すること
この3つは今でも大切にしている。だが、正直に言うと、もう上は目指していない。中級者で満足している。充分に楽しめているからだ。つまりは、料理の上達法とは楽しみ方でもあると思っている。
僕にとっての自炊は、健康のためではない。節約のためでもない。仕事でもなければ、承認欲求のためのものでもない。仮に明日世界から僕以外の人がいなくなっても、僕は料理を作るだろう。それは楽しいからだ。
ただ、そう思うことが、逆説的に料理の上達に繋がっていたのであろう。中級者を目指していたわけでないが、結果的にそうなった。おかげで、あの頃よりも今の方が楽しめている。20代の頃の僕には感謝しかないのである。