





十勝の田舎町で暮らしている。僕はきのこ農家だ。栽培には森の環境も必要だが、きのこの発生はハウス内で行っている。故に365日が収穫日。真冬でも仕事があるというわけだ。
今年も雪の季節がやってきた。夏から秋にかけて高温の日が続いたが、冬の始まりに関しては例年通り。11月末にはスタッドレスの恩恵も感じられている。異常気象が叫ばれる昨今だが、少しだけ安堵した。
冬支度も間に合った。今期は農作業を犠牲にして動いていた節もあったから不安だった。加えて夏に怪我をしてしまい、半月ほどの空白も生んでしまった。そのしわ寄せが冬支度に及んだのだ。具体的には薪の準備と榾木のハウス搬入。対処しないと冬と春の収穫量が激減してしまう。それを回避するためにスケジュールを大幅に変えた。おかげで最低限の冬支度は完了したのである。
故に雪も歓迎できている。もしも冬支度が未完了であれば、忌み嫌っていただろう。やはり、すこし先の未来を望む暮らしをしていたい。冬の到来も待ち遠しく思えていた。雪を歓迎できたということは、そういうことである。
道路は白くなっていた。とはいえ気温はまだ高い。轍のように2本の黒い線が延びている。僕はこの線から逸脱することが多い。バックミラーを覗けば新たな線が描かれている。そもそも僕は季節を問わず他の人と違う線を描きがちだ。タイヤのパンクは多い。誰かから聞いた話だが、パンクが多い人は人と違うところを走っているらしい。それが僕だ。自転車でもそう。雪が降るとそれが可視化されるというわけだ。
人とは違う自分で在りたいわけではない。そう思っている。けれども本当のところはどうなんだろう。たしかに、そんな自分は好きだ。だからといって、そのために違う道を選んでいるわけではない。そこには敏感でいる。カウンター思考には囚われたくないからだ。
おそらく人の本質的な部分から生まれるものなのだろう。価値観の多様性はそこでも生まれる。そう考えれば、それによって個人の自由は制限されてしまうかもしれない。カウンター思考を待つ駒として生きていかねばならないからだ。それに囚われたくないのである。
だがここでひとつの疑問が生まれる。カウンター思考に捕らわれたくないという想いもまた、カウンター思考なのかもしれない。そして、そんな想いもまた然りだ。カウンターへのカウンターをさらにカウンター。永遠と続くネットワークがそこにはあるのかもしれない。この想いからは逃れられないのだ。
アートもそうなのかもしれない。それに対するカウンターカルチャーは確かに存在した。分からない美学。意味不明なものと表現した漫画は、過去に多く存在した。それに対してのカウンターカルチャーが日本の美術なのかもしれない。メッセージ性の強い自己表現としてのアート。カウンターのカウンターは元には戻らなかったみたいだ。
食についても言えると思う。極々一部だが、メインに対するカウンターと思える価値観を持つ人達も存在する。そして、そこに対してのカウンターも存在する。多様な価値観がそこに存在するわけだ。
他にも様々な面でこのネットワーク構造に出会える。社会問題にもなっているが、破局的な場面にならないのは、この構造のおかげであろう。生体内でも同じ構造のものがある。『イディオタイプネットワーク』と呼ばれているものだ。抗体に対する抗体があり、その抗体にも対応する抗体がある。必ず拮抗する存在がいるおかげで、暴走が防がれているというわけだ。人のカウンター思考も、その理由で存在しているのかもしれない。
これは応用できる。上手く使えば、自身の思考の暴走を押さえることが出来るだろう。方法は簡単だ。自身を否定すればいい。次はその否定を否定するのだ。これを連続で行い、否定のネットワークを構築していく。そうすることによって見えてくる景色はある。きっと穏やかなものだろう。すくなくとも僕はそうだった。考え続けるとはそういうことだとも思っている。
今季の僕の行動は正解だったのか。それについては肯定しない方がいい。まずは否定してから、その否定を否定する。そして、その否定をまた否定する。考え続ける。おそらくその問いに正解や不正解は無いのであろう。さすれば肯定も否定も意味は無い。あるのは結果としての轍があるだけだ。すこしだけ人とは違う線を描いただけ。だが、ひとつだけ分かったことがある。それは、その線の先を見続けたいということだ。