





それは街中だった。すこし坂になっていたかもしれない。もちろん冬靴は履いていた。関東で生まれたが、雪国での生活は長い方だと思う。スキーも人並みには滑れる。雪の上は慣れたものだ。それでもこけた。怪我は大したことない。手を擦りむいて血だらけになったが、それくらいだ。それよりも恥ずかしかった。そう、雪道でこけるということは、羞恥と戦うということなのだ。
僕はたまにこける。おかげで、こけ方の分析は進んだ。分別しようとすれば、3つにカテゴライズできる。『かかし型』『足払い型』『子馬型』。ちなみに、最近やらかしたのは『子馬型』のこけ方だった。
厳密に言うと『かかし型』はこけてはいない。だが、羞恥を受けるという点では、こけたと言っていいだろう。足を滑らせ、とっさにバランスを取る。背筋は伸びる。両腕は広がる。無意識に制御システムが発動するわけだ。その姿は『かかし』に似ている。それが名前の由来だ。尻もちは突いていないが、充分に恥ずかしいのである。
そこへいくと、『足払い型』はちゃんとこけている。地べたに這いつくまでは一瞬だ。何が起こったか分からない。切れ味の鋭い柔道の技を食らったときと似ている。僕はこれを東北在住時に味わった。油断していたと思う。職場の玄関前だった。その日は空から大粒の雪。足元のアイスバーンも隠れて見えない。到着に安堵するのが早かったのだろう。気づいたときには這いつくばっていた。だが、状況を把握して最初に訪れるのは、やはり羞恥心だった。心が痛い。体の痛さはその後にやってくる。臀部も痛い。心身ともにボロボロとなった。
そして『子馬型』のこけ方だが、これが一番最悪なこけ方となる。察しのいい人なら分かると思うが、これは『かかし型』の発展形だ。かかし状態で前後左右にもがいたあとにこける。その姿は産まれたての子馬のよう。僕はこれを街中で披露した。
もがいている時間は永遠に感じられた。実際は3秒程度であろう。だが、演者が感じている時間は長い。頭の回転も幾分に速かろう。走馬灯は回らないが、希望と絶望が交互に襲ってくる。『まだいける!』『もうだめだ』『立て直せたか?!』『こけて楽になりたい』『諦めるものか!』。しかし現実は残酷だ。最後は十中八九こけて終わる。そして羞恥との戦いがはじまるわけだ。
だが、雪国の人たちは優しい。僕が羞恥と戦っていると察してくれる。笑いもしなければ、声を掛けることもしない。手を差し伸べることも然りだ。ありがたい。変に関われば、僕の心の傷は広がるだろう。とはいえ、僕が大怪我をして困っていたなら、周りの人たちは助けてくれるはずだ。そこら辺の空気をくみ取ってくれてる気がする。
助ける優しもあれば、無視をする優しさもある。端から見れば、こけた僕を無視する殺伐とした現場に見えるかもしれない。けれども実際はどうだ。皆は空気を読み合い、結果的に手を差し伸べないだけだ。そこには優しさが溢れていたのである。
そう考えると申し訳なく思う。おそらく、僕は周りに心配をさせていただろう。見知らぬ大勢の他人にだ。傷が出来たのは僕だけではない。やはり足下には気を付けるべきだ。いまいちど、雪道の歩き方を考えてみようと思う。