





十勝の田舎町で暮らしている。僕はきのこ農家だ。数年前に脱サラ移住して就農した。きのこの栽培には原木を利用している。故に農薬や肥料の類は使わない。使いたくてもメリットは薄い。手間と費用が掛かるだけだ。つまり必要ないのである。
それでも外からは、自然を愛する、健康志向で、ロハスな農家に見えるのだろう。無農薬で化学肥料を使わない栽培をしているからだ。おまけに僕は自然風景の写真を撮っている。そして都会から田舎への移住者。他者が僕に抱く想像は、容易に予想できるのである。
だが、実際はどうだ。僕はマックも食べる。コンビニの弁当も好きだし、料理には味の素も使う。おそらく、想像の人物とは掛け離れているだろう。
とはいえ、美味しい野菜は好きだ。それを選ぶ基準でオーガニック系の言葉を目安にしている節はある。だが、あくまでも目安だ。オーガニック系をうたっていても不味い野菜はある。逆に農薬や肥料の使い方が上手い農家さんの野菜は、それ以上に美味しかったりもするのだ。
そもそも、オーガニックとは美味しい野菜を栽培するための方法ではない。結果的に美味しくなりやすいだけだ。目的は、なるべく環境に悪影響を残さないためのもの。極端に言えば、栽培しないことが望ましい。自生しているものを少量だけ頂いてくるのが一番のオーガニックなのかもしれない。
つまりは『自然との共生』を目指すものなのだが、誤解を恐れずに言えば、僕はこの言葉に違和感を覚えている。大前提として、自然と人が対立構造にあるからだ。人の営みは自然の一部という考え方も然り。僕は人の営みこそが自然そのものだと思っている。
とはいえ、生物の営みは複雑系だ。その極みが人のそれだろう。けれども、特別ではない。ベースは同じだ。単純なドミノ倒しでも、複雑なものでも、重力や加速度などの力学を利用していることは変わらない。それと同じだと思う。
そう考えれば、僕ら人も環境には少なからず影響を与えてもいいはずだ。それが自然の現象だからだ。いや、いいもなにも、そこには正解も無い。言葉通り『自然な振舞い』をすればいいと思っている。便利な暮らしをしたければすればいいし、それに対して後ろめたさがあるのであれば改めればいい。直感でも複雑なロジックの結果だとしても。そう思っている。
つまり、今現在の状態が答えなのかもしれない。自然との関わり方という問いに対しての答えがだ。自然という言葉の多様な解釈があり、多様な価値観で考えた問いに対しての思慮がある。それは人の数だけあるだろう。そのグラデーションの中に浮かぶ人々の折り合いポイントは、不安定で次の瞬間には移動しているかもしれない。そんなふわふわとした状態は、多様な価値観が創り上げた自然現象の結果であり、問いに対する答えなのだと思う。
僕は十勝できのこの原木栽培をしている。仮にこれが菌床栽培だとしたら、続けたいとは思っていなかっただろう。この土地に住む僕がそう思わせるからだ。だが、山で自生しているきのこを収穫して売ろうとは思わない。やはり、原木に菌を打込み、科学的な栽培方法を実践すると思う。僕の『自然な振舞い』で辿り着いたポイントはそこなのだ。
そう、僕の営みこそが自然であり、僕の作り上げた人工物もまた自然風景そのものなのである。森の榾場、ハウス内の井桁積み、そして人工栽培された原木きのこ。すべてが僕の営みという自然現象の結果ということだ。写真の被写体としても申し分ないのである。