十勝は夜空もきれいです。自宅でも満天の星を眺めることができ、車で5分も離れれば天の川も。 夜は外出する機会も少ない方ですが、星空に気付くと、すこしのあいだ足を止めて魅入ってしまいます。 子供の頃、親がプラネタリウムによく連れて行ってくれたおかげか、星座や惑星にも興味があって、ついつい夜空で確認作業を。 オリオン座の三ツ星からベテルギウスを確認して、そこからシリウスを目印に冬の大三角を経て北斗七星を。 そこから北極星を挟んでカシオペア座。冬はそんな動線で空を眺めてしまいます。
星空が美しいのは、きらきらした観にあると思うのですが、 加えて秩序ある天文のシンプルな論理も、そう思わせているひとつの要素なのかも知れません。 地球の上では様々なことが関係して真っすぐに進むことさえ難しいですが、 宇宙では要素も少ないためか規律正しく動くものも多いです。 例えば、太陽の周りを地球が円を描いて回るように、他の惑星も太陽の周りを円を描いて回ります。 今日も昨日も一昨日も。きっと明日も明後日も明々後日。 すくなくとも僕が生きているうちは同じ動きを繰り返すのだろうと。 そんな振る舞いを司る天文のシンプルな秩序ある論理には、美しさも覚えてしまうというわけです。
そこへいくと生物の様々な論理も同じ理由で美しいです。 脳の情報処理や免疫の作用機序、遺伝システムなどなど、それらの理論はシンプルで本当に美しい。 けれども、その理論の受け取り方や在り方などを説いたお話等には若干の違和感も覚えてしまいます。 僕だけかもしれませんが、ひとつひとつの事柄を見れば違和感もなく納得感はあるものの、 それらを重ねて人の全体像を見ようとしたとき、確かな姿はもちろんのこと、おぼろげな姿すら見えてきません。 それが違和感の出処であり、つまりは美しくないと思ってしまうわけです。
それはきっと『視点』の違いなのかもしれません。 天動説から地動説へと理解が移る際も、必要だったものは視点の変更だったと思います。 自分を中心に考える視点から、中心を自分ではないところへ置く視点へと。 そう考えれば、生命の様々な論理の受け取り方も、自分を中心に考えてしまっている視点を他へ移す必要があるのかも知れません。 ステートメントで書いた『生命とは生物の一個体ではなく、 生物圏を創ることで維持されているセントラルドグマそのもの』という一文には、 自分という生物個体を中心に考える視点を、 生物圏を創ることで維持されているセントラルドグマを中心とした視点への変更を意味しています。
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そうすることで美しいと思える理論は多くあると思います。 例えば個体の死。それは生物個体を中心に考えれば不具合であり直すことが求められるものですが、 上記の生命を中心に考えれば必要で獲得された仕組みとも思えます。価値観を含む多様性もそう。 ひとつひとつの生物個体のためのものではなく、 生命全体の存続のためのもの。勝つためではなく負けない戦略と考えればその仕組みにも違和感は覚えません。 そこから導かれた人の在り方についても美しく感じてしまいます。
ただ、そんな視点で眺めることが物事を正確に見定められる方法と、 そう思ってしまいますが、ここにも落とし穴があると思います。 結局、生物個体ではなく生命を中心に置いてることも、自分を中心に考える視点と言えるのではないでしょうか。 それではと、さらに視点を移してみれば、ここでも美しいと思えるものはありました。生命とそうでないものとの間には、 境界なんてものはなく、生命の営みと斜面を転がる石にも差違はないと思えます。 そのような考えは生命に対する冒涜かもしれません。 が、その想いこそ人が人であるための所以であって、生命が望む姿への回帰経路とも思えます。
きっと世界は思っている以上にシンプルな論理で動いてると。 人や生命を中心に考えていたら絶望してしまうほどに、です。 でも実際は、論理だけではなく、その視点で眺める現実の景色も美しく感じられます。 ありとあらゆる物がカテゴライズされない景色は、ただただシンプルで美しいと思うのです。
でも、そんなことは何の役にも立たないことなので、写真に活用してみるくらいが丁度良いのかもしれません。 今日も椎茸はきれいと思えますし。
そんなことを思う今日この頃です。