椎茸栽培の楽しさとは。
やはり長い時間を掛けて育てた榾木から、立派な椎茸が数多く発生すると嬉しく楽しい。思うように椎茸が発生しなくとも、その原因を考えて、対策を講じて、その結果、多く発生してくれると、ひときわ嬉しいですし、その過程もあとになって思い返せば楽しい思い出。収穫籠にいっぱいの椎茸を見れば、明日を頑張れる活力も沸いてきます。
一方で、お客さんへの対面販売でも楽しいことは多く、『おいしそう』の言葉を頂けるだけで嬉しいもの。『美味しかったから友達にもあげたい』と言ってくれるお客さんも珍しくなく。そんなとき『椎茸農家でよかった』と思うのですが、そんな時間も椎茸栽培の楽しさのひとつだと思います。
とは言っても、地域おこし協力隊員時代の『研修』や『お手伝い』という形での椎茸栽培も、つまらないものではありませんでした。やはり多人数で取り組む作業は楽しいもの。ひとりでは億劫になる作業も『早く終わらせてしまおう』という号令を共有できれば、別の楽しさも生まれてきます。そんな楽しさを僕に与えてくれたのは、町から少し離れた場所で椎茸栽培をされているお師匠さんでした。十勝生まれの十勝育ち。年齢は僕より一回りくらい上の方。器用で出来ることが多く優しい人。椎茸栽培はもちろんのこと、経営や農家という仕事への向合い方、田舎暮らしの嗜みなど、多くのことを教わりました。地域おこし協力隊員を楽しく過ごせたのは、このお師匠さんのおかげだったと思っています。
ただ、そうした好きや楽しいを集めた仕事に就けることは、とても幸せなことだと思うのですが、どこか違和感を覚えることもあります。好きや楽しいを追い求めるだけで良いのかと。そもそも『働く』には、どのような意味があるのでしょうか。
普遍的に考えれば、働くことは生きること。働くことでお金を稼がなければ生きてはいけません。一方で、ロジカルに考えれば、働く人として社会を成り立たせている一面も。どちらにしろ、人にとって『働く』ということは人生の大部分を占めるので、できれば無理なく楽しく取り組みたい。そんな風に以前は考えていたのですが、就農してからはすこし考え方が変わりました。
お金や人のために働いてはいるのだけれども、仮にお金の心配はなく、人のために出来ることがなくても、やはり働いてはいるのだろうと。それは『働く』とは言えないものかもしれませんが、身に付けた技術を淡々と繰り返し使っていきたい想いもあります。木を伐り運び、椎茸を栽培し、収穫する。生きるための手段と思えるこの一連の動作が、実は『働く』ことの本筋なのかもしれません。そう考えれば、仕事とは関係のない、毎日の写真や料理も僕にとっては『働く』の一部。暮らしの3大要素と言われている衣食住ですが、それは環境を表わすもの。その環境の中で行われる『働く』も、暮らしの要素としては大切なことだと思うのです。
原木しいたけ農家の仕事はルーチンワークがほとんどです。原木を運ぶことと、収穫すること。季節によっては、菌を植えたり、原木を組んだり、伐採したり。どれもが単調で繰り返し行うもの。けれども、技術は必要です。毎日毎日、技術を使う場面があります。それは、好きや楽しいがあること以上に、恵まれた仕事環境なのかも知れません。『働く』の解釈は人それぞれで答えのない問いだとは思いますが、今の僕はそう思っています。